連載企画 Human 杉浦正則(日本生命)

印刷する このエントリーをはてなブックマークに追加   

第9回 アトランタオリンピック出場を決めた直後の仁志敏久プロ入り宣言に複雑な気持ちも2014年01月11日

 杉浦としては仁志も福留も、もちろん上手い選手だという印象は受けていたものの、跳び抜けた存在という様には映らなかったようだ。
「選手としては、もっと上手い人を見てきていましたからね。だから、プレーでビックリさせられるという印象はなかったですね。ただ、仁志なんかは、勝負強さがあったとは思います。都市対抗の予選で、仁志のエラーで同点に追い付かれて延長になって、最後は何とか勝って代表になれたということがあったんですけれども、彼は泣いていましたからね。やはり、一発勝負の厳しさ、1球の怖さを学んでいったんじゃないでしょうか。ただ、仁志も福留も、ここ一番での勝負強さは目を見張るものがあったとは思います」

 多くの社会人野球選手は、高校野球の一発勝負を経て大学野球でリーグ戦という環境を経験する。それから、社会人に進むとまた、一発勝負の緊張感を味わうことになる。そうした中で、改めて勝負の怖さ、一球の大事さを学んでいくことになるのである。
「もちろんプロ野球でも、一球の怖さということをよく言いますけれども、社会人野球では一球で負けたら、次の日の試合を失うことになるわけですよ。そういう意味では、社会人野球の方が一球の重みはあるのかなとも思います」
 この意識は、ミスター社会人野球としてのプライドでもあろう。

 また、オリンピックなどでもさまざまなシステムが導入されてはいるが、そんな中でベスト4など、メダルがかかってくる試合は一発勝負と同じ緊張感がある。どうしても負けられない試合に対して、首脳陣はあらゆる面で万全の体制を整えにいく。そうした戦いもまた、国際試合独特のものでもある。
  杉浦らの日本代表は、結果的にはアトランタオリンピックではバルセロナからメダルの色を一つ上げて、銀メダルを獲得することになった。最終的に金には届かなかった。
 帰国後には、プロ野球からの誘いもあったが、結果的にはプロ入りには至らなかった。

 96年の日本選手権では、その試合での好投を見た当時のボビー・バレンタイン監督が「ニューヨークメッツで投げてみないか」と声をかけたもののそれを拒否して、社会人野球を続け、一部プロも参加することが承諾されていたシドニーオリンピックを目指していくことになった。
 プロも一部参加するということで、年齢的にも上の方に属するようになっていた杉浦の代表選出を危ぶむ声もあった。しかし、国際舞台ではある程度の経験者が必要だという意見も強くありシドニーの代表にも選ばれ、オリンピックの野球の日本代表としては異例ともいえる3大会連続の出場と、オリンピック通算5勝という記録を打ち立てている。

 また、シドニーでは結果としてはメダルには届かなかったものの、杉浦自身はオリンピックの日本代表の全体の主将も任された。このあたりも、杉浦 正則という人間が広くJOC関係者からも評価されていたということであろう。

 杉浦は、社会人野球の現役選手としては日本生命に10年間在籍して、その間、都市対抗本大会にはすべて出場、その間に2回優勝を果たし、橋戸賞(最優秀選手)も2度受賞している。このあたりも、「ミスター社会人野球」と呼ばれる所以である。

(文=手束 仁

このページのトップへ


【関連記事】
日本生命vsHonda【第41回社会人野球日本選手権】
日本生命vs大阪ガス【第86回都市対抗野球大会】
日本生命vsトヨタ自動車【第86回都市対抗野球大会】
セガサミーvs日本生命【第40回社会人野球日本選手権】
日本生命vsセガサミー【第39回社会人野球日本選手権】
第13回 第84回都市対抗野球大会 出場チーム紹介 日本生命(大阪市)【第84回都市対抗野球大会 チーム紹介】
第16回 日本生命 小林 誠司 選手 【2012年インタビュー】
第10回 日本生命 山本 真也 選手 【2012年インタビュー】
杉浦正則物語(Human)

コメントを投稿する