第1回 【手束 仁】 第10回記念大会(1983年) 初出場で4強入りを果たした新日鐵広畑の記憶2013年10月29日

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 日本選手権大会期間中、社会人野球にゆかりのある各界の方々に、これまでの日本選手権の『思い出のベストゲーム』をうかがって連日記事をお届けしていきます。まず第1回は、スポーツライターの手束仁氏のベストゲームを伺いました!

1983年10月28日(金) 大阪球場
新日鐵広畑    001 200 001=4
日本鋼管福山   010 000 110=3

スポーツライター手束仁氏のベストゲーム

 第10回記念大会となったこの年の日本選手権大会。会場となっているのは今はなくなっている大阪球場である。南海電車と近鉄電車の終点となっているなんば(難波)駅からほど近いということもあって、かつて「なんば球場」などと呼ぶ人もいて、親しまれた球場だ。
 プロ野球では、南海ホークスの本拠地として使用されていた。鶴岡一人監督がいて野村 克也捕手が活躍し、アンダースローの杉浦 忠投手やスタンカ投手などがいて、日本シリーズも制したことがあるチームだった。もっとも、当時は低迷期となっていた。

 そんなこともあって、日本シリーズの可能性があるにもかかわらず、その日程に重なるスケジュールで、当然のように日本選手権の会場となっていたということは、今考えると、南海球団としては、あまり勝とうという意識ではなかったのかな、などと勘ぐってしまうくらいだ。南海はこの5年後、ダイエー(現ソフトバンク)に買収されて福岡に移転した。やがて、大阪球場も姿を消すことになる。

 その大阪球場。スタンドの作りが急で、上段に登ると落っこちそうな感じですり鉢状の底にあるグラウンドを見つめるという状態だったということを思い出す。

 閑話休題、10回目となったこの大会、そろそろ夏の都市対抗と秋の選手権という形で選手たちだけではなく、アマチュア野球ファンにも定着してきた頃ではないだろうか。この大会で松下電器(現パナソニック)のみが10回連続出場を果たしていた。

 過去1968(昭和43)年には富士鉄広畑として、71年には社名変更で新日鐵広畑として都市対抗を制して、この年の都市対抗にも15回目の出場を果たしている新日鐵広畑。ところが、日本選手権はこの年初出場だったということに、ややビックリしている。


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