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- 【手束 仁】 第10回記念大会(1983年) 初出場で4強入りを果たした新日鐵広畑の記憶
第1回 【手束 仁】 第10回記念大会(1983年) 初出場で4強入りを果たした新日鐵広畑の記憶2013年10月29日
【目次】
[1] 大阪球場の記憶
[2] 正田耕三の活躍も光り、日本選手権ベスト4
正田耕三の活躍も光り、日本選手権ベスト4
この1点を、8回途中からリリーフしていた西村 基史(尼崎工)が、四球の走者を出しつつも併殺で守りきって、ベスト4進出を果たした試合だった。
新日鐵住金広畑は準決勝で住友金属に敗退するが、正田は翌年のロスアンゼルス五輪の日本代表に選出され、一番打者として活躍し、その年のドラフト2位で広島から指名を受けて入団。87年には巨人の篠塚と首位打者を分け合い、翌88年も3割4分で連続首位打者を獲得。89年10月15日の中日戦では1試合6盗塁の日本記録を樹立している選手だ。そんな正田の好打と俊足、闘志あふれるスライディングなどが見られ、後の正田の原型を示しているような試合ぶりだったといえよう。
なお、この試合でリリーフした西村も翌年のドラフト2位で日本ハムに入団して、96年にはダイエーに移籍して引退している。その後は、打撃投手となったが、13年間で264試合に登板している。細く長くプロに身を置いた投手でもあった。
また、この試合の両チームの先発投手は新日鐵住金広畑が当時は日本代表のエース格とも言われていた速球王の藤高 俊年、日本鋼管福山は下手投げのベテラン内山田 慶弘だった。藤高は伊香(滋賀)で77年春に、内山田は筑紫中央(福岡)で70年春に、ともにチームを甲子園に導いているが、いずれも初戦で東京勢に敗退している。
新日鐵住金広畑は企業統合で現在は新日鐵住金広畑となっているが、その時代を思わせる名称が残っているのは嬉しい。一方の日本鋼管福山はその後、川崎市の日本鋼管を吸収する形でチームはNKKとして存続していたが、その後さらに企業が川崎製鉄と合併しJFE西日本となった。
そして、チームも川崎製鉄水島と合体した形でJFE西日本となっている。グラウンドは福山市の、今でもバス停名称として残っている「鋼管正門前」にあるが、都市対抗の代表となった時には福山市・倉敷市の両市代表という形になっている。
社会人野球の思い出を語るときは、どうしても現在との比較も含めて、企業名やチーム名の変遷にも触れていくことにもなる。それもまた、社会人野球が、常に日本の産業の発展の中で推移してきたということの証明でもあろう。
ちなみに、社会人野球日本選手権大会の前身は、1951(昭和26)年から73年まで後楽園球場で行われていた産業対抗野球大会(通称=産別大会)だった。そのあたりにも、日本の企業と社会人野球との密接な関係性が窺われるのではないだろうか。
(文=手束 仁)