時代を映してきた都市対抗野球

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第8回 伝統ある都市対抗野球も、新時代突入となるか(最終回)2012年07月23日

Honda・西郷泰之選手は今年も都市対抗で本塁打を放った

 一時は都市対抗野球で全盛を極めていた感もあった、自動車関連企業だった。特に神奈川県では、藤沢市・いすゞ自動車、横須賀市・日産自動車、川崎市・三菱ふそう(旧三菱自動車川崎)などがしのぎを削っていた時代もあった。そして、それぞれのチームのレベルも高かった。しかし、それらのいずれもが、廃部休部に追い込まれた。

 そうした結果、都市対抗の常連となった自動車関連会社は本田技研工業がチーム名をHondaとして狭山市と、Honda熊本Honda鈴鹿の3チームを維持して気を吐いている。

また、太田市・富士重工業、豊田市・トヨタ自動車、三菱自動車勢では福岡市・九州三菱自動車と岡崎市・三菱自動車岡崎がチームとして残った。三菱自動車京都と九州日産自動車は消滅した。やはり、時代の流れであることは否めない。

 それでも、2009年の第80回大会は記念大会ということもあって出場枠も増加されたのだが、Hondaが狭山市と熊本、鈴鹿と3チームそろい踏みとなったのは史上初めてだった。Honda熊本が3回戦を突破すれば、狭山市とのHonda対決が実現するかと期待されたが、東芝に阻まれた。 しかし、狭山市・Hondaの方は、その東芝をも下して勢いに乗って、そのまま黒獅子旗を手にすることになった。決勝の相手は豊田市・トヨタ自動車だった。折しも時代は各メーカーがエコカーを発表し始めた頃で、「ハイブリッド対決」などと称されてもいた。

 Hondaは休部となった三菱ふそうから、ミスター社会人野球ともいわれる主砲の西郷泰之を獲得しており、打線の核が出来たことで、持ち前の打撃力がより生きたということもあった。破壊力のある打線で圧倒した。自動車会社同士の決勝があった一方で、この年を最後に日産自動車も三菱ふそうに続いてチームを消滅することを発表した。自動車業界そのものが頭打ちという状況を浮き彫りにさせる現象でもあった。

 厳しい社会現象という経済状況も芳しくないという現実の中で、Hondaの安藤強監督(当時)は、こう語っている。
「野球で獲得できる選手の数も、会社から決められています。特に、今の時代ですから条件も厳しくなってきています。その中で、野球をやらせていただける環境を提供してもらっているということは、それだけでもありがたいことだと思っています。だけど、やる以上は試合で勝つことによって、応援してくださる社員の人たちにも喜びを与えなくてはいけません。それが、企業としてチームを持っていただいている会社への恩返しでもあると思っています」

 そんな思いを見事に結果として実らせたのである。揺れ動いていく時代の中で自動車業界対決を制したHondaの優勝は価値のあるものだったともいえるのではないだろうか。


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