第8回 【同級生対談】 阿部 次男さん(富士重工) ✕ 岡崎 淳二さん(鷺宮製作所)2014年09月04日
【目次】
[1]2人の出会い、そしてお互いの印象…
[2]阿部投手のスローカーブが生まれた秘話
[3]長く活躍できた秘訣
[4]現役引退を決めた理由
長く活躍できた秘訣

岡崎淳二(鷺宮製作所)
――社会人野球の場合は、毎年、同じ対戦相手でしたが、お互いにかなり研究し合うのでしょうか?
阿部 そうですね。どんな選手かというのは、もうお互いに分かりきっていたことなので、練習試合の時から、なるべく同じ投手が同じチーム相手に投げるようにしていました。予選を想定して、絶対このチームの時は俺が投げる、とか。そうすると、向こうもどういう対策してくるのかとか分かるので。
投げるほうも、一度やられたら、次は見返してやろうとか思いますからね。隠すとかは、一切なかったですね。
岡崎 僕の場合も、1試合で手の内は全部出しちゃうので、同じチームとは二度、三度もやりたくないですね。二度とも抑えると、三度目は打たれるだろうっていう考えがあるので。逆に、その前に打たれていたら、その次は抑えられるだろうとは思います。
――そこでいくと、同地区内の対戦ではなく、全国各地で主催されているJABA大会や、本戦のほうが投げやすかったりしますか?
岡崎 そうですね。九州大会などの地方大会とか好きでしたね。遠征なので試合後は、他のチームの同年代で集まったりとかしていましたね。
――ベテランになってくると、そういう集まりでの仕切りもあるのではないでしょうか?
岡崎 僕はそういった仕切りは、一回だけやりましたね。得意じゃないんですけど、誰かがやらないと集まらないので、じゃあやろうか、と。当時35歳くらいで、同年代とその前後12~13人くらいが集まったんですけど、街中でウロウロしていると、他のチームの若い選手と遭遇したりして「何やってるんですか」って見られたりしました(笑)
――すでにお二人の名前を知らない社会人野球選手はいないというほど、本当に大きな活躍を残されてきたお二人ですが、ここまで長く社会人野球選手の現役としてプレーできた秘訣はなんでしょうか?
阿部 守りに入らずに、常に攻めの気持ちを持ってプレーしていたからだと思います。
岡崎 僕は、常に身体のケアしていたことですかね。体格も身体の使い方も、人によって違うので、僕は常に身体の状態は気にかけていました。
――では、これまで長く現役を続けてこられて、悔いがあるとしたらどんなところでしょうか?
岡崎 都市対抗で優勝したかったですね。
阿部 都市対抗準決勝まで行ったときに、そこでベスト4で終わってしまったことですね。優勝できるメンバーが揃っていたので悔しかったです。
岡崎 あと、もっと若いうちに日本代表に入りたかったですね。毎回、打たれて帰ってきたので(笑)
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- 阿部次男(富士重工業)
利根商業高卒業後、1991年に富士重工業に入社。22年間、社会人野球の第一線で活躍してきたサウスポー。2011年には都市対抗野球大会10年連続出場表彰を受ける。その翌年、惜しまれながらも現役を引退する。
<主なタイトル>
第33回社会人野球日本選手権大会最優秀選手賞(2006年)
第79回都市対抗野球大会小野賞(2008年)
都市対抗野球大会10年連続出場表彰(2011年)

- 岡崎淳二(鷺宮製作所)
川越商業高では地区大会2年連続完全試合達成。2年夏には甲子園出場。東洋大学を経て、1995年に鷺宮製作所に入社。入社1年目にチームを20年ぶりとなる都市対抗優勝に導く活躍。18年間、社会人野球で活躍したサウスポーは、2012年に引退を決意。
<主なタイトル>
第32回社会人野球日本選手権大会優秀選手(投手部門)(2005年)
第78回都市対抗野球大会優秀選手(投手部門)(2007年)