連載企画 Human 筑川利希也選手(Honda)序章 「ヒーローは、再び」

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第2回 野球人としてのどん底2013年03月07日

 筑川利希也は、大学時代の4年間をこう表現する。
「野球人としてのどん底だった」

そして、
「自分という人間が変わった4年間でもあった」と――。

 2001年3月、東海大相模高校を卒業した筑川は、東海大学に進学した。その年の春、チームは全日本大学野球選手権で優勝。
 この大会で、MVPにあたる最高殊勲選手賞は、当時の東海大エース・久保裕也(現・読売ジャイアンツ)が受賞。まだ入部して3ヶ月目の筑川は、同大会での出場はなかった。しかし、この年、筑川はリーグ戦で最速150キロをマークし、さらに秋のリーグ戦では、ベストナインと最優秀防御率のタイトルを獲得している。
『前年のセンバツ優勝投手』の肩書きを背負った筑川利希也の大学1年目は、まさに順風満帆。誰もがそう思うほど、すべてが上手くいっていた。

 だが、筑川の東海大時代の成績をみると、4年間で首都大学リーグで登板した通算試合数は僅か10。勝敗数は4勝1敗。この数字は、大学1年目以降、ほぼ投げていないことになる。

 右肘の故障だった。
 発症は、大学2年の時。手術に迷いはなかった。それが野球選手としてプラスに変わるのなら、メスを入れてほしいと自ら医師に告げた。
 しかし、その後も痛みは再発した。
「手術をして、リハビリをして、ちょっと良くなったかなと思ったら、また痛くなって、再び手術をしました。3年生までは、ずっとリハビリをしていて、ボールが投げられるようになったのは4年生になってからです」

 筑川がマウンドに上がらなかった空白の2年間。
 この時期こそが、彼が“どん底”と表現した期間である。
「東海大の筑川って、野球辞めたらしいよ」そんな噂話しは、彼の耳に何度も届いた。
 悔しかった。
「自分が故障したことも、手術を選択せざるえないことも、野球を辞めたくなるぐらいショックだったんです。大学3年生の時は、大学で勉強しているイメージしかないです。僕がユニフォームで練習している姿は、チームメイトたちは見たことないと思います。新しく入ってくる後輩たちからは、『筑川さんは、大学で野球やっていたんですか?』と聞かれるぐらいでしたから」

 それでも、筑川の中に、『野球部を辞める』という選択肢はなかった。マウンドに立てなくても、プロへの夢が遠のいても、幾度と屈辱を味わっても、筑川は野球選手で在り続けた。丸2年、筑川はひとり黙々とリハビリを続けた。

 そして、その時期こそが、筑川の心を変えていったのだ。


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