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第4回 新日鐵住金かずさマジック 山縣有輔選手2012年01月27日

 2003年、新日本製鐵君津硬式野球部から、千葉県君津市に本拠地を置く広域複合企業チームとして生まれ変わった市民球団「新日鐵住金かずさマジックかずさマジック」(当時:かずさマジック)。2010年には、都市対抗と日本選手権に7年ぶりに出場を果たした。

 その時、正捕手としてマスクをかぶったのが、当時入団2年目の山縣 有輔選手。昨年は都市対抗予選の関東大会で惜しくも敗れたが、今年こそは2年ぶりの都市対抗出場を狙っている。今回はそんな山縣選手にお話を伺いました。

【目次】
[1]2番手捕手だった大学時代、同級生から学んだもの
[2]7年ぶりに掴んだ都市対抗大会で感じた悔しさ
[2]勝てる捕手になるために日頃、考えていることとは?

2番手捕手だった大学時代、同級生から学んだもの

"山縣有輔選手(新日鐵住金かずさマジック)"

――まずは大学時代についてお伺いします。実は、山縣選手は大学時代はリーグ戦出場数は10試合ほど。当時、同級生の細山田武史選手(横浜)が正捕手として活躍していました。入学当時はお互いにライバルとして、またプロを意識して取り組んでいたのでしょうか?

山縣選手(以下「山縣」) 僕はプロへの思いはもちろん持っていましたが、周りに言えるほど自信もなかった。下級生の頃は今ほど具体的に考えていなかったし、取り組めていなかったですね。社会人に入ってからの自分と比べると、全然意識が違いました。

――そんな大学生活の中で山縣選手が“変化”したきっかけは何かあったのでしょうか?

「山縣」 細山田が先に試合に出始めた時に、キャッチャーってコロコロ変わるポジションじゃないし、あいつも試合で結構活躍していて、それをみて「自分はもう試合に出れないな」って感じたんです。
 だけど、大学3年からベンチ入りするようになって、細山田と接する機会が増えていって、気が付いたことがありました。ライバル心とは別に、あいつの野球に対する取り組みや姿勢をみて、自分なりに感じるものがあったんですよね。

 試合にはレギュラーで出られないけど、今、自分がチームに出来ることって何かを考えるようになりました。ブルペンでは、ピッチャーの状態を見るのが自分の役割だっていう責任感と自覚がこの時期から出てきましたね。

――大学卒業後もプロを目指して、硬式野球を続けていくつもりだったのでしょうか?

「山縣」 最初は続けない予定でした。就職活動も始めて、筆記試験の勉強も始めていましたから。だけど、そんな時、かずさマジックの指導陣の方々や、(大学の)監督さんから、社会人で一からやり直すチャンスをいただいたんです。だからこそ、もう一度自分の中で本気で野球と向き合っていきたい。やるからには、プロを目指すんだと思って入りました。


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プロフィール

山縣有輔
山縣 有輔(やまがた ゆうすけ)
  • 1986年、愛媛県生まれ。父親の転勤で小学校3年で佐賀県へ移り、その時期から野球を始める。そして、中学卒業後に東京へ引越し、早稲田実業高へ入学。

     中学まではピッチャーだったが、監督の勧めで高校からキャッチャーに転向。早稲田大へ進学したのち、09年に新日本製鐵株式会社に入社し、市民球団新日鐵住金かずさマジックでプレーする。
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