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第4回 新日鐵住金かずさマジック 山縣有輔選手2012年01月27日

【目次】
[1]2番手捕手だった大学時代、同級生から学んだもの
[2]7年ぶりに掴んだ都市対抗大会で感じた悔しさ
[2]勝てる捕手になるために日頃、考えていることとは?

7年ぶりに掴んだ都市対抗大会で感じた悔しさ

"正直分からないことだらけでした"

――2009年に新日本製鐵に入社し、市民球団かずさマジック(当時)に入団した山縣選手は、1年目から起用されました。これまでとは違う環境で、どんな思いで当時は取り組んでいたのでしょうか?

「山縣」 1年目はとくに、野球がやれる、試合に出られる喜びがありました。まともに試合に出るのは、4年ぶりだったので。だけど、正直分からないことだらけでした。配球とか、自分の中でいっぱいいっぱいで偏ってしまうこともあったし、根本的な技術も未熟でしたね。

――それでも2010年。山縣選手が入社2年目の夏、かずさマジック(当時)は7年ぶりの都市対抗出場を果たしました。予選で勝ち抜いた瞬間の喜びは今でも覚えていますか?

「山縣」 南関東大会第3代表決定戦で、先発した本多(俊弘)とリリーフの久保(貴広)の調子が良かったので、僕自身が難しいことやるんじゃなくて、丁寧にひとつずつという感覚で戦っていました。(JFE東日本に2対1で勝った瞬間)最初は、やっと試合が終わった!やっと都市対抗に出られる!ってそんな気持ちでしたね。

 予選が始まる前までは、監督さんにもずっと怒られっぱなしで、毎日怒られていて、正直自分でも苦しくて。その中でやってきて、ギリギリのところで勝てて、嬉しいというよりは、やっと終わった!やっと勝てた!っていう思いのほうが強かったんです。

――その年は、都市対抗に続き、秋には日本選手権にも出場を決めました。正捕手としてフルシーズンで活躍された山縣選手ですが、この年の試合の中で最も記憶に残っているのはどんなことでしょうか?

「山縣」 僕にとっては小学生以来の全国大会で、お客さんもスタンドにたくさん入って、マジックを応援してくれている人も多くて、本当に嬉しかったですね。
 だけど、都市対抗の初戦(※伯和ビクトリーズ戦で0対5で敗退)は完敗でした。終わったあとは悔しさしか残らなかった。ホームラン3本打たれて負けたんです。簡単にストライクをとりにいったところを打たれました。今は基本的に長打を打たれないように心掛けて考えているのですが、そこの意識が当時はまだ足りなかったですね。

――こういった大舞台でのプレーを経験していく中で、今はどのような意識で投手陣をリードしているのですか?

「山縣」 自分自身の根本的な考えとしては、たとえバッターが苦手なボールや打てないコースがあってもピッチャーが投げられないんだったら、投げさせないし、逆に、バッターが得意なコースでもあっても、ピッチャーが得意な球だったらそっちを優先して投げさせます。
 結局、投げるのはピッチャーですし、ピッチャーも感情や考えがあるので、不安なボールを投げて打たれるよりも、自信のあるボールをコントロールして投げたほうが打たれる確率が少ないと思うので。
 そのためにも、ブルペンとか練習試合で受けて、何が得意か何が不得意か把握するように心掛けています。


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プロフィール

山縣有輔
山縣 有輔(やまがた ゆうすけ)
  • 1986年、愛媛県生まれ。父親の転勤で小学校3年で佐賀県へ移り、その時期から野球を始める。そして、中学卒業後に東京へ引越し、早稲田実業高へ入学。

     中学まではピッチャーだったが、監督の勧めで高校からキャッチャーに転向。早稲田大へ進学したのち、09年に新日本製鐵株式会社に入社し、市民球団新日鐵住金かずさマジックでプレーする。
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