第11回 【イラン野球の素顔】「独特の文化によって形成されたイラン野球とは?」(前編)2015年06月23日

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イラン野球

【目次】
[1]元イラン代表監督の色川冬馬氏の野球人生
[2]見えてきたイラン野球とイラン人の特質
[3]イラン野球の発展を妨げている要因とは

西アジアカップで準優勝に輝いたイラン

 今年、西アジアカップで準優勝に輝いたイラン。その代表監督が日本人だったのはご存知だろうか。色川 冬馬さんは、まだ25歳の青年監督である。今回は色川さんにイラン野球について聞いたが、日本野球に慣れ親しんでいる我々にとっては想像以上の世界だった。イラン人特有の保守的な思考、ビジネスが絡んで初めて見えてきたイラン人の特質など、とても一筋縄ではいかない環境の中であった。話を聞くだけでも、うんざりするような状況だが、逃げ出さずイラン野球に携わっていた。

 現在はパキスタンの代表監督を務めるが、今年の5月までイラン野球の強化のために奔走していたという。その前になぜ、色川さんがイラン野球に関わるようになったのか?国際的な舞台で活躍したいという思考がなければまず関わらない国である。そこで、まずは色川さんの野球人生を紹介しながら、イラン野球の実態を明かしていこう。

元イラン代表監督の色川冬馬氏の野球人生

色川 冬馬氏

 宮城県出身の色川冬馬さん。高校は聖和学園に進んだ。そこで出会った監督の佐藤 漸氏が、のちに大きな影響を与えることとなる。
佐藤氏は仙台二高出身で、同期には日本ハム、横浜、ソフトバンクで活躍した江尻 慎太郎氏がいる。佐藤氏は、左投げながらセカンドを守っていたユニークな選手であった。過去には青年海外協力隊員として、タイのナショナルチームを指導した経験もある。そして2004年秋に聖和学園の監督に就任。2005年に入学した色川さんが、まさに第一期生であった。

 当時の聖和学園野球は、まさに画期的だった。
「甲子園に行くのに坊主にする必要があるのか?というような考え方の野球部でした。試合の登録メンバーの決め方も(話すことはできないけど、)独特の決め方でしたね。その決め方を巡って、連盟から怒られたこともあるほどでしたけど(笑)。佐藤監督が掲げる指導方針が『野球には無限の可能性がある』、『球史創造』でした。新しいことにどんどんチャレンジする。この考えが、僕の野球観に影響を与えたと思います」

 このようにして、佐藤氏の指導の下で培われた独自の野球観。高校卒業後に大学進学するも、その野球部では、すぐに野球観が合わないと感じた。率直にいえば、上下関係が厳しく、生活態度も規律も厳しい日本らしい野球部だった。

「僕は入学した時からアメリカで野球をしたいという気持ちがありました。だから、お金を貯めるためにも、禁止されていたアルバイトもこっそりとやっていました(笑)。このまま4年間いてもダメだと思って、結局は自分のやりたい場所で野球をするために野球部を退部しました」
当時、冬休みに独立リーグのトライアウトがあったため、合格をしたら一年間休学をしてアメリカでプレーすることを夢見ていた。

 2009年、2010年とトライアウトを受け続け、ついに2011年に合格を果たし、その年からアメリカでプレーをする準備をしていたところで、東日本大震災が起こる。そのため、2011年の渡米は諦め、当時大学3年生であったが、1年で卒業単位をすべて取得。そして2012年、大学4年生の時に渡米し、心置きなくアメリカでプレーをした。さらに2012年後半に帰国し、関西独立リーグでもプレー。2013年には、アメリカでプレーした縁もあり、プエルトリコのリーグオーナーから声をかけられ、プエルトリコでもプレーすることとなる。その際に、ラテンアメリカでの野球大会の概要を知り、翌年2014年には日本代表チームを率いて大会にも参加した。

 日本から海外へ、海外から日本へ。そんな中、海外で活動をしていく中で、イラン人の選手とも知り合いになった。

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プロフィール

河嶋宗一
副編集長 河嶋 宗一
  • 出身地:千葉県
  • ■ 現場第一主義。球児に届けたい情報とあれば日本だけでなく海外まで飛び回る。
  • ■ 副編集長、またドットコムのスカウト部長と呼ばれ、日本全国の隠れた名選手を探索。
  • ■ 幅広いアンテナと鋭い観察力でダイヤの原石を見つけだす。
  • ■ 編集部の理論派として、今日も球場に足を運ぶ。

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