第12回 福島ホープス(前編) 福島から「元気」を発信するために2015年07月10日
【目次】
[1]「福島から元気を発信する」使命感
[2]設立に動く中、つながった2つの「縁」
[3]岩村 明憲選手兼任監督の「東北・福島への想い」

岩村明憲選手兼任監督(福島ホープス)
そして小野氏は昨年11月、福島ホープスのGMに就任した。
これで地元経済界と球界の縁はできた。次は福島県の元気を全国に発信できる監督人事である。そこで小野GMは動いた。声をかけたのは「あの」岩村 明憲氏である。
「同級生なんですよ。宇和島東高(愛媛)の時、甲子園に出ていないのに高校日本代表入り。プロに入ってもトップを走って、WBCで優勝(2006・2009年)。メジャーでも活躍して……」
1997年、ヤクルトスワローズに入団。4年目にはゴールデングラブ賞を獲得。2001年にはオールスターに初出場し、日本シリーズでは優秀選手賞に輝いた。2007年からはメジャーに挑戦。デビルレイズ、パイレーツ、アスレチックスを渡り歩き、2011年シーズンから日本球界に復帰。
175センチと決して野球選手として恵まれた体格でないにもかかわらず、怪童・名コーチとして名高い中西 太氏(元西鉄ライオンズ)から授かった「何苦楚魂」(人生は何ごとも苦しい時が自分の基礎(楚)を作る)という言葉を胸にNPB:1,172安打、MLB:413安打を積み上げた実績は、今も燦然と球界に輝いている。
昨年11月、東京のホテルのラウンジ。小野GMは昨シーズン終了後に、東京ヤクルトスワローズから自由契約となった岩村氏と初めて顔を合わせた。
「話してみて、男の自分が言うのも変ですけど、カッコいいなと思いました。3時間、話をして惚れましたね。経営者的な考え方をしていて、すごいなと思いました」
小野GMの心中は「99%、来てくれるわけがない。やってくれるわけがない」という気持ち。でも願いは言わなければ届かない。「岩村さんしかいないです。やってください」と懇願した。
2度目に会った時、岩村氏は「やります」と返事をした。
「初年度だからといって、勝てない監督にはしたくなかった」という小野GMの「何苦楚魂」が実った瞬間。福島ホープス・岩村 明憲選手兼任監督はこうして誕生したのである。
岩村 明憲選手兼任監督の「東北・福島への想い」
「人ごととは思っていないんですよ。福島県は原発事故もありましたし、風評被害もひどいですからね」
そこには理由がある。
日本球界復帰の地を東北に定めた岩村選手兼任監督。その初年度・2011年シーズンが始まろうとしていた時、東日本大震災は発生した。
忘れられない光景がある。震災直後、星野 仙一監督(当時)、コーチ陣、選手たちは、4班に分かれ、宮城県内の被災地を訪問した。岩村選手兼任監督は、山﨑 武司選手(当時・現解説者)らと名取市へ。約600人が犠牲となった閖上地区に向かい、校舎1階が津波に飲み込まれた閖上中学校の屋上から被災地を目の当たりにした。
だからこそ。岩村選手兼任監督は約10ヵ月が経過した今、選手兼任監督就任を決意した際の思いをこう明かす。
「『東北の地に戻って来られる』という想いでした。僕は東北楽天ゴールデンイーグルスでの2年間の成績は納得していなかったですし、一生懸命に応援してくれた東北の人たちに後ろめたさがありました。
震災の支援やチャリティーは東京ヤクルトスワローズ時代も続けてきましたが、福島ホープスができた理由を考えると、チームに関わることが本当の力になるのではないかと思ったんです」
こうして、様々な人々の絆をつなぎながら2015年・福島ホープスはスタートを切った。
(取材・写真:高橋 昌江)
コメントを投稿する