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第39回 徳島インディゴソックス・山本 雅士投手 インタビュー 僕が築き上げた「1人ボトムアップ」 Vol.1 2014年12月22日

【目次】
[1]長期離脱を強いられた高校時代に培った「自ら学ぶ力」
[2]自主練習が強い精神力を作り上げ、自主性を養った
[3]「達成感がない」から、徳島インディゴソックス練習生に
「ボトムアップ」という言葉をご存じだろうか。選手たち自身が自己の責任において、メンバーや戦術を考え、検証することで、より深く人間性やスキルを高める手法のことだ。2006年に広島県立広島観音高校サッカー部でインターハイ初出場初優勝を果たした畑 喜美夫監督が提唱し、今や高校サッカー界を超えて教育界での一大勢力となりつつある成長理論だ。
2011年からは広島県立安芸南高校に場所を移し、日々「ボトムアップ」に励む畑監督。実は、その横にある野球部の中にも1人で「ボトムアップ」を体現しようと自問自答していた高校球児がいた。
最後の夏は背番号「3」。高卒1年目は練習生。公式戦登板0。にもかかわらず、今季の大活躍で中日ドラゴンズ・ドラフト8巡目指名を受けた四国アイランドリーグplus・徳島インディゴソックス(以下、徳島)山本 雅士投手がその人である。では、20歳の最速146キロ右腕がここまで築き上げた「ボトムアップ」とは?高校時代以降の野球人生5年間を辿りつつ、その真髄に迫っていこう。
Vol.2は12月25日(木)公開予定です!
長期離脱を強いられた高校時代に培った「自ら学ぶ力」

11月11日の中日仮契約会見で担当の正岡 真二スカウト(右)と握手する山本 雅士投手
――今季、中日8位指名を受けた山本投手ですが、実は安芸南高校時代は背番号「1」ではないと聞きました。
山本 雅士投手(以下「山本」) 1年夏の大会では「10」を付けさせて頂いたので、順調にいけばその後はエースナンバーを付けさせてもらえると思っていました。ところが、夏前から違和感があったけど「チャンスを逃したくない」と思ってそのままにしていた右肩と腰を、夏を終えてすぐ同時に痛め、投げられなくなってしまった。
そこで同級生で「11」を付けていた高下 貴生(こうげ・まお/現在:福岡大2年で軟式野球チームに所属)がエースナンバーを背負って、彼が伸びていったんです。
3年に入ってからは僕も戻ってきたんですが、彼が頑張っているのはわかっていたので、最後の夏も「3」を付けました。
――マウンドに戻るまでの1年半、どんな形で回復に努めたのですか?
山本 まずはぎっくり腰に近かった腰の回復に努めました。こちらは1年秋過ぎには回復したので、次に土台を作るための走り込みをしました。
あと、身体の弱さやフォームの不安定さはこれまでも感じていたので基礎練習もしました。みんなからも「焦るな」とは言って頂いていたのですが、高下がどんどんよくなるので焦って……。無理をしなければ、もう少し早く復帰できたとは思いますが。
――ということは、何回か投げて「やはり痛い」という時期があった?
山本 そうですね。万全だったのは1年の初めと、3年の最後だけでした。
――走り込みの話が出ましたが、具体的には何をしたのですか?
山本 長い距離や短距離ダッシュは自分でもしていましたが、よく来て頂いているOBの方や先輩方からインターバル走や下半身トレーニング・体幹トレーニングも教えて頂きました。この教えがあったことで僕も根気強くすることができたと思います。
特に3年上の主将だった高田さんというOBから教えて頂いたメデシンボールなどを使った体幹トレーニングは、球速アップにもつながりました。入学当初は130キロいくかいかないかだったんですが、3年最後は130キロ後半になりました。
――この時期にはメンタル面で苦しいところもあったと思いますが?
山本 正直、バッティングもそこそこよかったので「投手を辞めようか」と思うこともあったんです。でも片隅には「どうしても投手でやりたい」という考えがあったので。「このまま終わりたくない。何とか食らいついていこう」というのがありました。父親(誠さん<47歳>)からも「頑張れ。あきらめるな」ということを言ってもらいましたし、自宅でシャドウピッチや素振りの自主トレーニングにも付き合ってもらいました。
【次のページ】 自主練習が強い精神力を作り上げ、自主性を養った

- 山本雅士(やまもと・まさし 投手)
- 生年月日:1994年11月3日(20歳)
- 広島県広島市安芸区出身
- 173センチ78キロ
- 右投左打
最速146キロの伸びがあるストレートとカットボールが最大の武器。他にフォークやスライダー、今季からマスターしたスローカーブを操る右腕。広島市立瀬野小3年生でソフトボールを始め「瀬野小ソフトボールクラブ(現:瀬野ソフトボールクラブ)」で3年間プレー。広島市立瀬野川東中に進むと軟式野球部に転じ、広島県立安芸南高校で硬式野球へ。1年夏には早くも背番号「10」で登板した。
しかし直後に腰と肩を痛め、3年までマウンドには戻れず最後の夏は背番号「3」で一塁手兼投手。3回戦で敗退するも満足感は得られず、四国アイランドリーグplusのトライアウト受験を決断。四国開催トライアウトでは1次試験を突破。2次試験合格・ドラフト指名は叶わなかったが、徳島インディゴソックス(以下、徳島)から練習生契約打診を受け受諾。2013年は徳島の練習生として一年間を過ごし、「Winter league」などで登板した。
今季は開幕直前に練習生を脱し背番号「37」で選手契約を勝ち取ると、前期は先発、後期は中継ぎ・抑えで大車輪の活躍。愛媛マンダリンパイレーツとのリーグチャンピオンシップ、ルートインBCリーグ・群馬ダイヤモンドペガサスとの日本独立リーグ・グランドチャンピオンシップではいずれも胴上げ投手に輝き、四国4県知事連携チームMVPを受賞した。成績は31試合登板で4勝5敗6セーブ・102回3分の2を投げ被安打92 奪三振89 与四死球39で防御率2.54(リーグ5位)。
10月23日には中日ドラゴンズ8位指名を受け、11月11日に契約金1,500万円・年俸600万円(いずれも推定)で仮契約。背番号「51」・登録名「山本雅士」でナゴヤドームでの躍動を期す。