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第44回 松本 直晃投手(香川オリーブガイナーズ)vol.2「野球を続けさせてくれた『2つの出来事』」2015年04月14日

【目次】
[1]常葉菊川に「歯が立たなかった」東海大翔洋時代
[2]野球を辞めようと思って見た「甲子園」で刺激を受け、環太平洋大へ
[3]4年春で引退も、運命的出会いで「軟式野球」の道へ
「夢がない。夢が持てない」
そんな言葉を若者たちから聞くようになって久しい。強者はどこまでも強者であり、弱者はどこまでも弱者。浮上するチャンスは針の穴ほどもない。「言い訳」と思う一方で、一理ある部分も認めざるをえない。それは私たち、大人が「夢」を与えられていない責任でもあるからだ。
だからこそ、そんな現代でも大人たちが夢を与えれば、若者たちが夢をつかむ可能性は十二分に存在する。その一例が今季、香川オリーブガイナーズに入団した松本 直晃投手。環太平洋大学卒業までは内野手。そこから、わずか2年の投手経験・しかも軟式野球を経て、最速151キロを出した異色の経歴を持つ右腕が、「夢」への入り口に立つまでの大人たちとの出会いを語る。
中学時代までを振り返った第1回に続き、第2回は東海大翔洋高(静岡)、環太平洋大(岡山・中国大学リーグ)での経験と、野球人生を左右する出来事について語って頂きます。
常葉菊川に「歯が立たなかった」東海大翔洋時代
――高校は静岡県の東海大翔洋に進んだ松本選手ですが、地元を離れた高校を選択した理由は?
松本 直晃投手(以下「松本」) 神戸須磨クラブの先輩が2年続けて進学していた縁もありましたし、実際に練習会に参加したらチームの雰囲気もよかったので志望しました。同期では僕も含めて3人が神戸須磨クラブから東海大翔洋に進学しました。
――仲間と一緒とはいえ、はじめて親元を離れての生活には不安もあったのでは?
松本 正直、静岡県に来て最初の一週間は帰りたくて仕方なかったです(笑)。寮の部屋は神戸須磨クラブの3人と同県のヤングリーグ・播州明治ベースボールクラブの選手と1年生4人が同部屋だったんですが、その仲間内でしかしゃべらず、朝は早い、先輩方は色々言ってくる……。
――(苦笑)。でも、それが高校野球です。
松本 そうです(笑)。でも、慣れると寮生活も非常に楽しくなりました。
――高校でのポジションはどこになりますか?
松本 三塁手一本になりました。2年秋からレギュラーを張るようになって、打順は5番から7番。主に6番を打っていました。
――当時の静岡県で強いチームと言えば。
松本 常葉菊川の時代(2007年はセンバツ優勝・夏ベスト4。秋も静岡県・東海大会・明治神宮大会優勝。2008年春夏連続甲子園出場<春1勝・夏全国準優勝>)です。ムチャクチャ強かったです。
僕ら東海大翔洋も2年秋の大会準決勝では1学年下の庄司 隼人(現:広島東洋カープ)がエースだった常葉橘を破って。そこで東海大会出場権を得た上で、決勝で対戦したことがあるんですがボコボコにやられました(0対7)。ここで格の違いを見せつけられ、東海大会1回戦では堂林 翔太(現:広島東洋カープ)が1年生、一塁手で守っていた中京大中京と対戦し……。勝てるわけがない。レベルが違いました。
――確かにエースの戸狩 聡希(現:ヤマハ)(2012年インタビュー)をはじめ、松本選手の代もタレント集団でしたからね。当時の常葉菊川は。
松本 僕ら、東海大翔洋も望月 啓吾(東海大~現:日立製作所)という絶対的左腕エースがいたのに、彼らは望月を簡単に打ち込んでいく。「成す術がない。これは勝てない」という差を感じました。
――その中でも2008年春は県大会3位。そして最後の夏はどうでした?
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