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- 香川オリーブガイナーズ ドリュー・ネイラー投手(中日ドラゴンズ入団決定) 「『信は力なり』でつかんだNPB」
第52回 香川オリーブガイナーズ ドリュー・ネイラー投手(中日ドラゴンズ入団決定) 「『信は力なり』でつかんだNPB」2015年07月13日

【目次】
[1]「順調だった」AAAまで。しかし2011年から襲った苦難
[2]「絶対に治る」信念と「全身トレーニング」で2年ぶりマウンドへ / 日本・香川県でNPBをつかむ生活へ
[3]北米遠征での貴重な経験 / 中日ドラゴンズで「感謝の想い」を示す
「信は力なり」。かつてTVドラマ「スクール☆ウォーズ」から流行した言葉が最もあてはまる196センチ105キロの29歳大型右腕が、2015年前期の四国アイランドリーグplusで躍動した。最速153キロのストレートと多彩な変化球で前期シーズン11試合登板で4勝1敗2セーブ。59回を投げ防御率1.37(リーグ2位)という安定した成績を残し、香川オリーブガイナーズを前期優勝に導いたオーストラリア人、ドリュー・ネイラーがその人である。
2009年には第2回WBCオーストラリア代表に選ばれ、一度はMLB入りを目前にした逸材。しかし、その後は右ひじ・右肩を痛め、丸2年以上リハビリを続ける我慢の時間も経験している。では、そんな時期に彼を支えたものとは?今季から加入した香川の地で四国4県知事連携前期MVP・5月度グラゼニ賞・6月の北米遠征でも読売新聞優秀賞を受賞し、7月13日・NPB中日ドラゴンズ入団を決めた青い目のサムライに「信は力なり」の道程とNPBという晴れ舞台での意気込みを「独立リーグドットコム」独占取材で聴いた。
「順調だった」AAAまで。しかし2011年から襲った苦難

ドリュー・ネイラー投手(香川オリーブガイナーズ)
――まず、野球を始めたきっかけから教えてください。
ドリュー・ネイラー(以下:ネイラー) 4歳から5歳くらいにティーボール(1988年にできた投手のいない球技・オーストラリアではポピュラーなスポーツ)から始めました。8歳までティーボールをして野球に転向しました。その当時は投手を含めたオールポジションをしていたのですが、地区代表・州代表と順調に進んでいけました。
そうしているうちに15歳くらいになると急に背が伸び始めて三塁手や一塁手から投手もするようになりました。そしてアングリカン・チャーチ・グラマー学校オーストラリアに所属していたハイスクール時代に全国大会15試合で打撃は4割2分くらい、ホームランを2本くらい打って、投手としては3イニングくらいしか投げていなかったんですが、MLBのフィラデルフィア・フィリーズが投手として契約してくれたんです。
――それは本人もびっくりですね。そこからは?
ネイラー 2004年の一年間はオーストラリアで練習を積んでから、2年間はルーキーリーグ。そこからA・AA・AAAと上がっていって2009年にはMLBの40人ロースターにも入ることができました。アメリカの野球はオーストラリアより投げるボールや走る速度は速かったですが、日本とオーストラリアほどの違いは感じなかったです。
――5年でMLBロースターに入れるという過程は他の選手と比べても順調すぎるくらい順調だと思います。本人もその部分で自信は感じていたのですか?
ネイラー そうですね。ずっとスタートピッチャーとして7回くらいまで投げてクオリティピッチング(6回3失点以内)も続けられていましたし、イニングもリーグ3番目くらいに位置するくらいまでは投げられていました。今もそうですが、球数が少なく投げられることがストロングポイントでした。
――それはアメリカに渡る前からの考えだったのですか?
ネイラー はい。ピッチングスタイルはずっと変わっていません。テンポが悪いと守りのリズムも悪くなりますし、エラーもでますし、下手すると寝てしまう(笑)。ストライク先行でいくことがコーチも、ファンも幸せになる秘訣です。
――ただ、その後が我慢の時間でした。
ネイラー 2011年春のキャンプで右ひじを痛めてトミー・ジョン手術を受けて、この年は投げなかったんです。そして翌年復帰したんですが、30イニング投げても右肩の状態が一向に上がらないので右肩を手術して。その年と2014年はほぼリハビリです。草野球で一塁手をしていました(笑)。
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