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第18回 愛媛マンダリンパイレーツ 藤長賢司 選手2013年07月15日

藤長賢司の後には疾風が吹く。左打席からの一塁駆け抜けタイムは常に3秒台。どんなゴロでも全力疾走。まるで空を駆ける隼のように173センチ74キロの体がグラウンドに舞う。
愛媛マンダリンパイレーツに入団して2年目。現在、チームのみならずリーグ屈指の韋駄天二塁手として定評を得た25歳が、自らの「過去・現在・未来」について語った。
【目次】
[1]偶然のつながりで愛媛・済美高へ
[2]いつの間にか体力を作ってくれた済美での3年間/大学・社会人・そして独立リーグの道へ
「3」収穫多き1年目、そして家族のために勝負の2年目へ
偶然のつながりで愛媛・済美高へ
――まず、野球をはじめたきっかけを教えてください。
藤長賢司選手(以下「藤長」) 僕は兵庫県生まれなんですけど。母(一美さん)が野球好きだったので、幼稚園のころからマジックテープの付いたグローブでキャッチボールをしていましたね。父(貴司さん)にも甲子園の阪神戦に連れて行ってもらった思い出があります。
本格的に野球を始めたのは箕面西小2年の時です。箕面クラブという軟式野球チームで基本は内野手。4年生で箕面市から川西市立明峰小に転校したので、チームも明峰少年野球クラブに変わりました。けど、チームはどちらも市大会に出るくらいで、楽しくやっていました。

次の塁を狙う愛媛MP・藤長賢司二塁手
――でも、川西市立明峰中からは硬式野球チームに入ったんですよね?
藤長 プロ野球や甲子園に出るためにも『やるからには硬式』と思って今岡誠さん(元阪神→千葉ロッテ)や中島裕之さん(オークランド・アスレチックス)が先輩にいらっしゃる宝塚リトルシニアに入団しました。 当時から今のように(50メートル6秒0)足は速かったですね。ただ、身長はこのころ150センチくらいしかなかったので、打球が飛ばなくて。ですから、逆方向に転がして塁に出ることをすごく意識していました。現在のスタイルはこの時にできたと思います。
――お父さんも藤長選手が中学生になってからは厳しく接するようになったそうすね。
藤長 ランニングコースを複数設定してくれたり、総スイング数の表を作ってくれたり・・・厳しかったです。
――そして高校は兵庫県から愛媛県へ。福井 優也投手(現:広島)らと一緒に済美高野球部の2期生として入学します。なぜ、それまで縁のなかった愛媛県へ?
藤長 最初は兵庫県内の私学高校の練習会に参加していたんですけど、なかなか推薦がもらえずに。姉(絵里さん)がマネジャーをしていた川西明峰への進学を考えていたんです。ただそのころ、川西明峰の内藤人志宏監督(当時)が上甲正典監督から色々勉強させてもらっている中、まだ1期生しかいなかった済美と遠征で対戦する機会があって。その後に姉から『済美にいってみたら?』とアドバイスをもらったんです。
――それは偶然とはいえ、すごいつながりですね。
藤長 はい。今考えると自分でもびっくりするつながりです。
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- 藤長 賢司 (ふじなが・けんじ)
- 1988年1月12日 兵庫県出身
- 身長173センチ 体重74キロ 右投左打
- 済美高校
-大阪体育大学 - 2012年 ベストナイン(3塁手)