第1回 イーストアストライア 川端友紀選手(前編)2013年07月01日

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【目次】
[1]世界の舞台に憧れた小・中学生の頃
[2]野球一家に生まれたからこそ
[3]運命を感じた女子プロ野球の設立

運命を感じた女子プロ野球の設立

――ソフトボールで五輪を目指そうと思ったきっかけは何でしょうか?

川端 シドニー五輪をテレビで見て、凄いなと思いました。特に高山(樹里)投手が印象的で、投手でオリンピックに出たい気持ちがありました。その時、本格的にソフトボールを見たので、ウインドミル投法で投げることも分からなかったですけど、ソフトボールで五輪を目指そうという気持ちになりました。

――ソフトボールが五輪で無くなると決まった時はどんな気持ちでしたかでしょうか?

川端 高校時代ですので、その時は夢を失った思いがありました。凄い悔しかったのですが、それでもいつか復活するかもしれない、という話を聞いていたので、復活することを信じてレベルアップしようと思って頑張りました。

――ソフトボールをやられていて、打ち込んだ結果は何か技術的につながったことはありますか?

川端 中学1年から実業団までずっと投手をやっていました。投手は走ることが仕事なので、徹底的に走りましたし、それで体力面と足腰の強さが鍛えられて、今にもつながっているかなと思いました。

――高校最後の大会はどこまで勝ち進んだのですか?

川端 高校生最後の大会は県大会で準優勝をしました。私たちはインターハイを目指していたんですけど、同時に国体も目指していました。和歌山県は予選から結構強い地域と当たって早く負けることも多かったんですけど、国体に高校1年生の私を選んでいただき、そして投手で出させていただきました。1回戦がいきなり優勝候補だったんですが、とにかく無我夢中で、我武者羅な気持ちで投げたら1対0で勝利したんです。嬉しくてみんなで喜んだ記憶があります。でも次の試合で負けてしまった。それで次こそは、という思いで、2年生でも国体に出場することは出来たのは嬉しかったです。
 2年生の時は国体出場しただけではなく、近畿大会で優勝投手になったのも良い思い出です。

――その時の心境は覚えていますか?

川端 優勝の時は、二死満塁で、私はランナーで、最後押し出しでサヨナラだったんですよね。理想はマウンドでガッツポーズしたかったですけど、優勝は嬉しかったです。

――高校卒業後は実業団に進まれましたが、どうでしたか?

川端 やっぱりオリンピックに小学生からの憧れの気持ちが強かったということがあります。オリンピックは無くなっても、世界選手権はありましたので、それを目指して、お誘いをいただいて入りました。でもその後、会社の方針と自分の考えが合わないところがありまして……。ソフトボールに打ち込むことができなかったので、辞めたんです。

――やめた時は何もなかったですよね。

川端 何もなかったので、家に戻りました。他のソフトボールのチームのお誘いもいただいたんですけど、なかなか自分にとってソフトボールに打ち込めるチームが無くって。そうしている間に1年間が過ぎて、その時に女子プロ野球ができると聞いて、野球!と思ったんですよね。まさに運命を感じたんですよ。
 その話がなかったら、もし数年後に女子プロ野球の存在を知っても、女子プロ野球はやっていないと思いますし、ソフトボールもオリンピックもない。いろいろなことが重なってここにいると思います。

【後編に続く】

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プロフィール

川端友紀
川端友紀 (かわばた・ゆき)
  • イースト・アストライア
  • ポジション:内野手
  • 生年月日:1989年5月12日
  • 出身地:大阪府貝塚市
  • 経歴:市立和歌山高(ソフトボール) - 塩野義製薬(ソフトボール) - 京都アストドリームス(2010 - 2012) - イースト・アストライア(2013〜)
  • 身長:170cm
  • タイプ:右投左打
  • 首位打者(2010、2011)
    最高出塁率(2011)
    ベストナイン遊撃手(2011)
  • 上記データは掲載時のものとなります。
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