杉浦正則物語(Human)
- 2014.01.18
- 第10回 シドニーオリンピックを最後に現役を引退、コーチを経て監督を4年間務める
- 三度目のオリンピック出場となったシドニー大会では、日本チーム全体の主将にも抜擢された杉浦正則。しかしこだわり続けたオリンピックでの金メダルは、ついぞ獲得することは出来なかった。
- 2014.01.11
- 第9回 アトランタオリンピック出場を決めた直後の仁志敏久プロ入り宣言に複雑な気持ちも
- バルセロナオリンピックでは金メダルを目指しながらも銅に終わった日本代表。日本の投手陣を引っ張る存在の一人だった杉浦正則としても捲土重来の思いで、1996年のアトランタオリンピック出場を目指した。
- 2014.01.04
- 第8回 社会人野球の魅力は、トーナメント方式で明日なき戦いをしていくところ
- 社会人野球の場合、もっとも重視されている都市対抗の本大会と日本選手権はトーナメント大会である。だから、当然のことながら負けたら終わりという状況の中で戦っていくことになる。
- 2013.12.28
- 第7回 オリンピックという舞台はメダルの重さ一つとっても違う、特別な存在
- オリンピックというのは、やはり特別な舞台だった。日の丸を背負って日本代表になってみて初めて実感したことである。今まで経験してきた他の国際試合とも雰囲気そのものが違っていた。
- 2013.12.21
- 第6回 日本生命に入社し「オリンピックに出てメダルを取りたい」という意識がさらに強くなった
- 若い選手がのびのびプレーしていたということが強く心に残ったというのが、杉浦正則の日本生命に対する印象だった。そんなこともあって、最終的には日本生命を選んだ。
- 2013.12.14
- 第5回 オリンピック”という言葉に強く反応して、プロよりも日の丸を背負うことを選択
- 同志社大時代で、特に上級生になってからはプロ球界からも注目される投手となった杉浦正則。しかし、本人としてはむしろ日本代表としてオリンピックを目指すということに対しての意識の方が強かった。
- 2013.12.07
- 第4回 大学4年の明治神宮大会で優勝投手に!
- 同志社大に入学して2年生までの杉浦は、ベンチ入りしたり外れたりということを繰り返していたが、3年生になったあたりから、投手陣の中心にいるという意識も強くなってきていた。
- 2013.11.30
- 第3回 甲子園組には負けたくないという思いが支えになった同志社大時代
- 杉浦正則本人としては、高校に入学した時点から、野球を続けるか続けないかは別にして、大学へは行きたいという意識を強く持っていた。だから、プロに対しては最初から、指名は辞退ということは告げていた。
- 2013.11.23
- 第2回 意外!アンダースローから始まった、橋本高の杉浦正則投手
- それほどガチガチで野球をやろう、投手としてチームを引っ張ろうという意識はなく、それまで甲子園出場実績もない橋本高校を選んだ杉浦正則。言うならば、ちょっと野球の上手い普通の高校生だったのである。
- 2013.11.16
- 第1回 どこにでもいる、勉強もちょっと頑張る普通の野球少年だった杉浦正則
- どこにでもいる、勉強もちょっと頑張る普通の野球少年だった杉浦正則