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第1回 どこにでもいる、勉強もちょっと頑張る普通の野球少年だった杉浦正則2013年11月16日
2010年の夏の甲子園大会以来、NHKの高校野球解説者として、春夏の甲子園大会の中継で、お茶の間に親しまれている杉浦正則。現在は日本生命の法人営業を担当している身分でもあって、その柔らかい物腰は、野球をあまりよく知らない選手の母親世代や、女子高生などからも、「とても分かりやすい」と評判がいい。
「私自身は、投手出身ですから、このあたりで投手は疲れてくるだろうなとか、おおよそ打線はこんな球を狙っているのだろうなとか、投手心理で語るということはありますけれども…。ボクとしては、かなり大雑把なんですよ」
と、謙遜するが、多くのテレビで野球を見ている高校野球ファンは、そうして話されたことを聞きながら、「ははぁ、なるほどなぁ」と思うものである。そういう分かりやすい解説で、杉浦は野球界の知性派としてのポジションも確立している。

日本生命保険相互会社 杉浦正則さん
杉浦自身は、日本生命のエースから監督として社会人野球に貢献してきたということはもちろん、当時はアマチュア選手が 中心となって構成されていた日本代表の中心メンバーとして、同志社大時代から日の丸を背負う一員として活躍してきた。
まさに、「ミスター社会人野球」という称号を貰っているアマチュア野球界の秘宝といってもいい存在だ。
しかし、意外にも中学から高校までの杉浦は、野球で将来をなんとかしていこうという考えは毛頭なかった。
「ボク自身は、高校へ行ってそんなにガチガチで野球をやっていこうなんていう気持ちはなかったんですよ。ですから、投手に対してのこだわりなんて言うのもほとんどなかったですね。というよりも、投手やるくらいならば、高校で野球はやらなくてもいいかなというくらいの気持ちでした」
杉浦自身がそう言うように、中学から高校への進学に関しても、「是が非でも甲子園に出場する」、「将来はプロ野球になる」 なんていう気持ちは、あまりなかった。それよりは、野球よりはむしろ、大学への進学を意識して、部活動として野球をやっていても、何とか大学進学のできるところという意識で橋本高校を選んだのだった。
また、投手に対してのこだわりがなかったというのも、中学時代の一年上に、後々PL学園の黄金時代に桑田 真澄や清原和博らとともに活躍することになる松山秀明がエースで四番として活躍していたことも大きく影響していた。
「投手をやったら、どうしても松山さんと比較されるじゃないですか。それがいやで、他のポジションもやりたかったんですよ」
当時の和歌山県は、まだ智辯和歌山が甲子園で圧倒的な強さを示しているという存在ではなかった。むしろ、箕島が一時代を築いた後に、その歴史を引き継いで、公立校が何校か競い合っているという構図だった。
その中での橋本高校という選択だった。
「進学ということも考えてみて、橋本を選びました。智辯和歌山が、今みたいな強豪になっていたとしたら……?よけいにボクとしては選んでないと思いますよ」
高校進学時の杉浦は、そんなどこにでもいそうな、ちょっと勉強も頑張る普通の高校生だったのである。
(文=手束 仁)
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