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第2回 意外!アンダースローから始まった、橋本高の杉浦正則投手2013年11月23日
それほどガチガチで野球をやろう、投手としてチームを引っ張ろうという意識はなく、それまで甲子園出場実績もない橋本高校を選んだ杉浦 正則。橋本高は進学校としては、地元ではある程度の評価を受けていたところではあったので、杉浦としては、「勉強もやって、大学へ行って、出来たら野球をやってもいいかな」そんな意識でもあった。言うならば、ちょっと野球の上手い普通の高校生だったのである。

日本生命保険相互会社 杉浦正則さん
中学時代には投手だった杉浦だが、高校へ進学してからは投手に対してのこだわりはなかった。「いろいろなポジションを経験して楽しんで野球をやろう」そんな意識の方が強かったといっていいだろう。
高校では、その考え通りにいろいろなポジションをやり、それはそれで楽しい野球を経験できていた。それが、気がつくといつの日からか練習でバッティング投手を務めるようになり、何となく投手になったというイメージなのである。
「バッティング投手をやっているとき、当初はアンダースローで投げていた時代もあったんですよ。それでも、投手としてはスピードを出そうとしますよね。そのためには下半身を使ってというか、体全体で投げていくということを覚えたのでしょうか。後で考えてみたら、監督に上手いこと乗せられたというところもあったんだと思います」
通常、投手というのは速い球を投げようとすると、オーバーハンドで投げようとするものである。それでも、スピードがあまり出ない場合に、サイドハンドやアンダーハンドにして、相手の目先を変えたりかわして行こうというスタイルにするものである。
ところが、杉浦の場合は、当時の広畑良次監督から、「もっと腕を下げろ、それで速いボールを投げろ」と指示されて、地面すれすれまで腕を下げていたこともあったのだ。ただ、本当にアンダースローで力強い球を投げるには、それなりの強靭な下半身が必要になる。このことが自然と杉浦の下半身を鍛えあげていたのかもしれない。
「ある日突然、『自由に投げていいぞ』ということを言われて、それでスリークォーターくらいで投げてみたら、ストレートで140キロ近いボールが行くようになっていたんですね。アンダースローで投げていっているうちに下半身の使い方を覚えたということだと思います。それからですかね、投手としてやっていくことになったのは」
こうして、2年生の秋季県大会では優勝投手となって、ある程度は注目される投手にもなった。下半身が安定してくることで、制球力も増してきた。このあたりは、かつて1965(昭和40)年の第一回ドラフト会議で、東映(現日本ハム)から2位指名を受けたという実績のある広畑監督の目論見があったのかもしれない。
「気がついたら、上手いことはめられていたという感じでしたね」
と、杉浦も言うように、気がついたら、あれほどやりたくないと思っていた投手になって、しかもチームを引っ張る存在となっていたのだ。それに、スピードと制球力を伴った安定感のある投手として、高い評価を受けるようにもなっていた。
3年生となった春季県大会は、この頃から躍進してきた智辯和歌山を下して、学校としても創部39年で初めての県大会優勝。近畿大会に進出した。
近畿大会では初戦で京都商(現京都先端科学大附)相手に12奪三振。試合は延長になったが12回、杉浦自身が二塁打を放ち、スクイズでサヨナラのホームを踏んでいる。準決勝では比叡山に1点差で惜敗するものの、近畿大会ベスト4進出は橋本としては学校始まって以来の快挙だった。当時の高校野球専門誌は、杉浦について、次のように評価されていた。
「橋本の浮沈のカギを握る杉浦のスライダーのキレは天下一品だ。フォーク、カーブ、シュートと球種も豊富。ストレートの球速は140キロ近くで、しかも制球力もある」
初の甲子園への期待も高まっていたのだが、夏は杉浦が1点に抑えながらも、チームは得点を奪うことが出来ずに3回戦で敗退した。こうして、杉浦の高校野球はあっさりと終わりを告げた。
(文=手束 仁)
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