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第3回 甲子園組には負けたくないという思いが支えになった同志社大時代2013年11月30日
杉浦 正則本人としては、高校に入学した時点から、野球を続けるか続けないかは別にして、大学へは行きたいという意識を強く持っていた。
高校野球(和歌山県・橋本)では140キロ近い球を投げられるようになってきたこともあったし、春季近畿大会ではベスト4にも進んでいた。その原動力となったエースだということで、プロ野球のスカウトなども足を運んでくるようになっていた。しかし、杉浦自身としては高校時代にはプロに進もうという意識はまったくなかった。だから、プロに対しては最初から、指名は辞退ということは告げていた。

日本生命保険相互会社 杉浦正則さん
「世の中も、学歴社会でしたから、基本的には高校に入学したときから、大学くらいは卒業しておかないといけないという気持ちは強かったですね」
そして、大学野球にトライするということで関西学生野球連盟に所属する、関西の名門の同志社大学に進学することとなった。同志社大の野球部関係者が近畿大会を見に来ていて、そこでその眼鏡に適ったということである。
「東京の大学という選択肢もなくはなかったんですけれども、まあ、田舎者ですから、あまり近畿を離れたくなかったというのが正直なところですね(笑い)。それで、どこかこっち(関西)でやれるところがあったらいいね、みたいなことを言っていたら、ちょうど同志社大から話があったんです」
セレクションにも参加し、その実力も一定評価された杉浦は、あとは受験勉強に取り組むだけだった。関西の名門校でもある同志社大は、スポーツ推薦枠とはいっても、それはそれで全員合格ですよと言うことではなかった。やはり、現実には学力試験で基準点を突破しなくてはいけない。
だから、杉浦は必死に勉強した。橋本高の場合は進学校でもあり、周囲もみんな受験勉強に取り組んでいるわけで、集中しやすかったということもあったであろう。
こうして、杉浦は同志社大学野球部の一員となった。
「田舎で普通に野球をやってきたという程度のものですから、大学に入ってみたら全国から来ていますし、甲子園出場組なんかもいましたから、非常に厳しい環境の中でやらせてもらえたかなという気はしています」
それでも、気後れすることはなかった。
「他人のことは、あんまり気にしない方なので…」
そう、涼しく言ってのける杉浦だったが、基本的には甲子園組には負けたくはないという気持ちがあったことは確かだ。
そんな意識もあって、同志社大では1年生からベンチに入ることができた。
関西学生野球連盟としては、名門中の名門の同志社大である。そこで1年生からベンチ入りするということは誇りと自信にはなるはずだ。
「大学では、京都大学に負けているんですよ。1対0なんですけれども、京大に貴重な勝ち星を与えてしまいました(苦笑)。その後は、ベンチに入ったり外れたりということもあったんですけれども、最初に京大に負けた試合というのは一番覚えていますね」
関西学生リーグの場合は、やはり国立の京都大からは試合を落としてはいけないという意識が他の5大学には当然ある。それだけに、京大に負けた試合というのは、逆に強いインパクトを持って記憶に残っているということであろう。
(文=手束 仁)
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