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第5回 オリンピック”という言葉に強く反応して、プロよりも日の丸を背負うことを選択2013年12月14日
同志社大時代、特に上級生になってからはプロ球界からも注目される投手となった杉浦 正則。しかし、本人としてはプロ入りよりも、日本代表としてオリンピックを目指すということへの意識の方が強かった。
「それまで、プロ野球のスカウトの方なんかも来て下さっていたりもしましたが、自分としては、それほど気持ちは動かなかったというのが正直なところなんです。それよりもオリンピックという言葉の方が刺激は大きかったですね。『何がなんでもオリンピックに出たいなぁ』という思いが強かったんだなぁと思いますね」
当時は、オリンピックの野球競技はアマチュア選手だけが対象ということになっていた。つまりそれは、社会人野球選手が多いということになるのだが、そんな中で、大学生で声をかけられたということが、杉浦にオリンピックを意識させる大きなきっかけとなった。
それだけ、日の丸を背負ってプレーするということに魅力があったということである。特に、杉浦の現役時代にはオリンピック代表に選出されることがアマチュアとしての最高峰と位置づけられている部分が大きかった。
「大学4年の時に、日本代表の候補合宿に呼ばれたんですね。その時に、『このチームは、オリンピック(1992年バルセロナ大会)を目指すチームなんだ』ということを言われまして、自分としては、その言葉に影響を受けて、プロの指名対象外となる凍結選手にしてもらったんです」
当時オリンピックでの野球の扱いは、公開競技としてロサンゼルス、ソウルと続いていた。そして、杉浦が対象となったバルセロナから正式競技として採用されることとなったのである。そんなことも、杉浦のオリンピックへの意識を強くしていったことにつながっていたのではないだろうか。
「元々、チームで何かするということが好きだったこともあり、日本を代表してオリンピックに参加するということに大きな魅力を感じていました。それに、オリンピックの代表候補合宿に参加した時にも、そのレベルの高さを感じていましたから、それならば『ここで自分の力を試してみたいな』という意識になっていったんだと思います」

日本生命保険相互会社 杉浦正則さん
予選段階で候補選手に名を連ねていた学生は、若田部 健一(駒澤大)、落合 英二(日大)などがいた。杉浦としては、当時の日米大学野球の日本代表には候補選手となったことはあったけれども、代表として選ばれたことはなかった。そういうことも、オリンピックの日本代表ということにこだわった大きな要素だったのである。
「通常、大学日本代表になっていて、(大学生の候補選手は)そこから全日本の代表選手というのは選ばれて行きますよね。ところが、ボクはそれがないのに選ばれましたからね(苦笑)。後で聞いたことなんですけれども、当時の山中正竹監督が、『アジアには、スライダーピッチャーが通用するから一度試したい』ということで、選んでくれたようです」
しかし、北京で行われたアジア大会では、ぎっくり腰になってしまって、持ち前のスライダーの威力はそれほど発揮することができず、リリーフで2イニングほど投げた程度だった。ただ、内容そのものは悪くなかったということで、オリンピック候補選手として残った。
こうして、同志社大4年の時には14季ぶりのリーグ優勝に貢献し、明治神宮大会でも優勝投手となっていた杉浦正則だが、オリンピックの代表にこだわり続けることとした。その結果、大学卒業後の進路は社会人野球を選択した。
東京の企業チームからの誘いもあったものの、最終的には関西の社会人球界の名門である日本生命に進んだ。
「チームそのものも若返りを目指していたところもあって、若い選手が生き生きと試合に出ているという印象が強かったのが日本生命でした。そういった、比較的年代の近い人が試合に出ているので、やりやすいのかなとも思いました」
これが、やがて「ミスター社会人野球」と呼ばれるようになる杉浦 正則の社会人野球への第一歩だった。
「仕事の内容などを意識した進路設定もあるのでしょうが、ボクの場合はチームで選んで、そこが保険の仕事をしていたということでした」
そう言って笑うが、今は法人営業担当としても活躍する立場となっている。それもまた「ミスター社会人」という姿であろう。
(文=手束 仁)
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