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第9回 アトランタオリンピック出場を決めた直後の仁志敏久プロ入り宣言に複雑な気持ちも2014年01月11日
バルセロナオリンピックでは金メダルを目指しながらも銅に終わった日本代表。日本の投手陣を引っ張る存在の一人だった杉浦 正則としても捲土重来の思いで、1996年のアトランタオリンピック出場を目指した。

日本生命保険相互会社 杉浦正則さん
日本生命の同僚としては仁志 敏久が94年から2年間在籍して、日本代表選手としてアトランタオリンピックを目指して一緒に戦った仲間だった。杉浦としては予選を何とか一緒に通過できたこともあって、凍結選手としてアトランタを目指すものだと思っていた。
「岡山でアトランタを目指す予選の試合があって、それを通過して良かったなと思っていたら、その翌日の新聞で仁志がプロ入りを表明しました。ともにオリンピックの予選を戦った仲間としては、本大会も一緒に戦いたいという気持ちがあり複雑な部分もありましたが、こればっかりは本人が決めることですからね。仁志自身も葛藤があったと思いますよ」
結局、仁志はその年(95年)のドラフト直前で凍結選手を辞退して、当時は逆指名制度のドラフトだったことを利用して、巨人を逆指名して2位で巨人入りしている。もっとも、その時の日本代表メンバーで凍結選手を辞退したのは仁志だけではなかった。NKKの舩木 聖士が阪神を、慶應義塾大の高木 大成が西武をそれぞれ逆指名して1位で入団を果たしている。選ばれた選手達はオリンピックの出場権を得て、ここで一度、プロを選択するのかオリンピック代表として日の丸を背負って戦うのかを選択する場に立たされたということでもあったのかもしれない。
ちなみに、この年のドラフトでは逆指名権のない高校生でPL学園の福留 孝介に7球団が競合して、近鉄の佐々木 恭介監督がくじを引き当てて、「よっしゃー!」と大声で叫んだ。その叫び声が話題を奪った“よっしゃードラフト”だったのだが、福留は当初の公言通りに「意中の球団以外だったら日本生命」を実行して、日本生命に進み杉浦の後輩として3年間プレーすることを選択した。福留と杉浦との最初の出会いについては、前回の項で述べた。仁志が抜けたということもあって、福留はすぐにアトランタの日本代表候補に選ばれた。こうして、福留は杉浦とともにオリンピックに参加することになった。
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