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第3回 【難波貴司さん】 第21回大会(1994年) 日本通運の主将として優勝を経験!2013年10月31日
私の日本選手権の思い出のベストゲーム第3回は、難波貴司さんにお話しを伺いました。
難波さんは、堀越ー東海大を経て日本通運に入社。
1993年に都市対抗準優勝、日本選手権ベスト4、そして1994年は日本選手権優勝を経験。当時、主将をつとめていた難波さんのベストゲームと、日本通運の野球部について熱く語っていただきました。
1994年10月24日グリーンスタジアム神戸
第21回日本選手権 決勝戦
日本通運 101 300 130 = 9
日産自動車 010 100 150 = 8
難波貴司氏(元日本通運)のベストゲーム

難波貴司氏(日本通運時代)
私の思い出のベストゲームは、優勝した1994年の第21回大会の決勝戦の日産自動車戦ですね。9対8の接戦。最後に追い上げられましたが、なんとか逃げ切って勝つことができました。決勝で対戦した日産自動車はいつも大事なところで当たっていて、因縁深い相手だったんです。私は当時、チームの主将をやっていました。主将を任されたのは1993年。東海大時代に副主将をやっていたのですが、主将自体は初めて。前のキャプテンは背中で引っ張っていく方だったのですが、私は頭で動くキャプテンになろうと思いまして、選手同士でとことん話し合いました。
練習前、練習後、試合前、試合後とその都度、選手に時間をかけてミーティングをしました。当時は若い選手が多かった。どんな話をしたかというとチーム組織論、チームのあり方を説いていましたね。
スター選手がいなかったチームなので、みんなで力を合わせていきました。だんだんチームに粘りが生まれて、『粘りの日通』と呼ばれるようになりました。それが1993年には都市対抗準優勝、日本選手権ベスト4、そして翌年の日本選手権優勝につながりました。全員がMVPという感じで、日替わりで活躍する選手が変わっていくチームでした。
振り返ると試合は接戦ばかり。当時は絶対的なエースがいなくて、黒川 紀章が主戦投手で投げることが多かったのですが、とにかくみんなでつないで投げることが多かったです。でも点が取れるチームだったので、勝てたと思います。
当時の日通の野球はつなぎの野球がウリでした。昔は金属バット全盛の時代でしたので、ガンガン打つ強打のチームが多かったのですが、私たちのチームは小柄な選手が多かったので、機動力野球をウリにしていたんですが、当時では珍しかったと思います。
1番から9番まで盗塁ができるチームで、4番打者もガンガン走っていましたね。私は1番を打っていて、ノーサインでどんどん走っていました。その時の2番が、現在の日本通運の監督を務めている藪 宏明で、藪は私のスタートが遅いときは打ってくれて、そして私のスタートが良ければ、見逃してくれる。選手同士でそういう呼吸が取れていたチームでした。
小味な野球で、機動力、戦略性、結束力が優れたチームでした。当時の私たちが一番自信を持っていたのが練習量。現在、西部ガス(野球部訪問 第5回:西部ガス)の監督をやっている杉本泰彦さんは練習をやらせる監督さんで、朝から晩まで、どこにも負けないというぐらい練習をしていました。
でも、そんな杉本さんも、現在の西部ガスでは当時ほど練習はやっていないようです。今は効率を求めて練習していると聞きました。そこには、社会人野球の時代の流れを感じますね。
(語り=難波貴司さん)