時代を映してきた都市対抗野球

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第2回 都市対抗代表の歩みは日本の産業の推移2012年06月07日

 社会人野球、特に都市対抗野球は、その代表チームの顔ぶれを見ているだけでも、その時代の日本の産業や経済の発達・発展ぶりを推察することができる。つまり、都市対抗の代表は、そのまま日本の産業の推移を示しているというものでもある。
 戦前の黎明期には一つは鉄道局が主体となっていき、もう一つは大陸の満州勢が力を持っており、まさに躍進する帝国日本を象徴していく様子が窺えるものでもあった。 
 しかし、第二次世界大戦(太平洋戦争)を経て日本が敗戦国となって、日本領が奪われ満州など中国勢や台湾、朝鮮といったところからの出場はなくなった。

 戦争で3年の中断を経て、戦後の復活大会ともいえる第17回大会は1946(昭和21)年に開催された。優勝したのは岐阜市の大日本土木だが、まさに復興していく日本を代表していくような土木会社ということが興味深い。ちなみに、大日本土木は翌年も優勝を果たすのだが、復興作業を進めていく中で、土木関連が多くの人材必要としたということもあったのだろう。野球選手も含めて人材確保という意味からも、その範囲が広かったのではないかということも推測される。

 もっとも食糧難の時代でもあるから、当時は大会参加する際に米を持参していくことになっていたという。それでも、後楽園球場のスタンドは、連日の満員であった。それだけ、人々が野球に飢えていた時代ともいえそうだ。人気としても、まだプロ野球よりは都市対抗野球や東京六大学野球の方が人気のある時代でもあった。
 当時の都市対抗野球の人気がどれほどのものだったのかというと、その注目度のバロメーターの一つとしては、1947(昭和22)年の第18回大会では、天皇皇后両陛下が訪れており天覧試合となったということである。
 また、この年は学制改革のあった年でもあり、これまでは中等学校野球だったものが高校野球となっていく切り替えの年でもあった。そうした節目であるということも、アマチュア野球はさらにここから隆盛を迎えていく伏線ともいえるものでもあった。
 活況を呈していた都市対抗野球だが、戦後復興に直接的に関連した企業としては岐阜大日本土木に並んで東京からは熊谷組、九州からは別府市の星野組が強豪として名を連ねている。


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