時代を映してきた都市対抗野球

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第7回 21世紀になって、都市対抗野球にもさまざまな変化が・・・2012年07月19日

 バブル崩壊が叫ばれた90年代前半には、阪神淡路大震災やオウム事件など、天災も人災含めて、社会を揺るがす出来事が多く発生した。それは、明らかに時代が動いていることを表わしていた。まして、20世紀も終わりを告げて21世紀の到来となっていくのだ。
 ノストラダムスが大予言したという98年にも、世界は崩壊することなく地球は維持されていた。しかし、新世紀を迎えるにあたって、世の中は希望よりは不安の方が多く感じられるというのもまた確かだった。
 かの手塚治虫が名作『鉄腕アトム』などで描いた21世紀とは、現実はいくらか異なった形で訪れた。アトムの世界で飛び交っていたエアカーの存在はなく、戦後ずっと右肩上がりの成長を見せていた自動車産業にも陰りが生じてきた。というよりも、ここへきて一気に成長が停滞してきたという状況になった。

 自動車産業だけではなく、日本を支えてきた根幹作業でもある鉄鋼産業も大型合併という名目で吸収による人員整理なども始まった。それに伴って、周辺の関連企業も経営が苦しくなってきている現実は否めなくなった。北海道の都市銀行として、北の経済を支えてきていた北海道拓殖銀行はチーム名をたくぎんと変えて頑張っていたが、98年に会社そのものが破綻した。まさかと思われた都市銀行の破綻で、にわかに日本経済は危機感が走ってきた。

「もはや、野球どころではない」そんな思いを抱いた社会人野球関係者も少なくなかったであろう。関西では、一時代を支えて、阪神淡路大震災の時にも出場を果たしていた古豪の小西酒造が99年に廃部を決定した。70年代のオイルショックの時代でも4年間の新規採用なしという中で、戦力が低下しつつもチームは維持してきていた。それだけに、今回の小西酒造の廃部は、関係者にとってはいよいよ深刻な問題になってきたと実感したに違いない。

 東海地方では、県立岐阜商の出身者を中心にして、地場産業として発展していた岐阜市・昭和コンクリートが、96年から4年連続出場を果たすなど、都合6回全国の舞台に姿を現していた。ところが、やがてチームの活動を停止せざるを得ない状況に追い込まれた。岐阜市郊外にある昭和球場と呼ばれているグラウンドは、部の再開を祈る気持ちで現在も維持されているが、時に県立岐阜商など高校野球部が使用している。

 それでも、自動車業界が都市対抗の舞台では、最後の意地を見せていた。2000年代の都市対抗は三菱自動車川崎の優勝で始まり、翌年はヤマハ発動機がベースとなっているヤマハが優勝。01年には藤沢市・いすゞ自動車、02年には横須賀市・日産自動車、03年には三菱自動車川崎からチーム名変更した三菱ふそう川崎が優勝。神奈川勢の自動車会社が3年連続で黒獅子旗を獲得している。さらに三菱ふそうは05年にも日産自動車を下して優勝を果たすなど、最後のあだ花のように、東京ドームで活躍したのだが、結局三菱ふそう川崎も日産自動車もやがて、2000年代末にはチームが消滅していった。

 神奈川予選そのものが、全国大会レベルだったといわれた最後の時代が2000年代前半だったである。そして、それは都市対抗野球全盛時代の名残を惜しむかのような、最後の花舞台だったのかもしれない。


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