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第8回 【同級生対談】 阿部 次男さん(富士重工) ✕ 岡崎 淳二さん(鷺宮製作所)2014年09月04日

【目次】
[1]2人の出会い、そしてお互いの印象…
[2]阿部投手のスローカーブが生まれた秘話
[3]長く活躍できた秘訣
[4]現役引退を決めた理由

 1972年生まれのサウスポー2人は、社会人野球の世界に入ってからは、常にライバルであり、また第一線で活躍し続ける仲間でもあった。そして、ともに40歳まで野球を続け、2012年、惜しまれながらも引退の道を選んだ。
岡崎 淳二(鷺宮製作所)、阿部 次男(富士重工業)。多くのファンを魅了し続けた偉大なる左投手だ。

 今回は、2人の対談をお届けします。でも、チョットその前に、取材後に収録した“特別MOVIE”もあわせて公開しちゃいます!


2人の出会い、そしてお互いの印象…

――社会人野球の世界では、約20年、ともに投げ合ってきたお二人ですが、お互いの存在を知ったのはいつからでしょうか?

阿部 次男(以下「阿部」) 僕は高校を卒業してすぐに富士重工業に入社したので、岡崎のことを知ったのは彼が東洋大を卒業して鷺宮製作所に入社してからなんですけど。鷺宮製作所とは、よくオープン戦をやっていたので、入社してそこで投げている岡崎を初めて見たときに、いい左ピッチャーが入ったな、と思いましたね。
 投げ方はちょっとマジックみたいだけど、よくあれだけの球が投げられるなと期待してみていたら、それなりに成績を上げてきて。それで、少しずつ意識するようになりました。

岡崎淳二(以下「岡崎」) 僕の場合は、入社してすぐに相手チームの選手もまだ分からなくて、各チームのエースを見るようにしていたんです。そしたら、背は小さいのに、オッサンのような顔した人がいる(笑)。てっきり年上だと思って、選手名鑑を見たら、同級生じゃないか!と。同じ年だし、左投手だし、僕と背格好も似ているのもあって、僕も頑張らなきゃなって意識し始めました。

――高校を卒業してすぐに社会人入りした阿部さんのほうが、社会人野球選手としてのキャリアが4年長いのですね。

阿部 そうですね。僕が入った頃は、金属バット全盛の時代だったので、『金属バットの怖さを知れた』という部分では大きかったですね。それで投球術がよくなったかなと思います。当時は、投げるのが怖いほどでしたから(笑)

岡崎 金属時代の社会人野球はすごかったですね。ラグビーの試合みたいでした。その頃、1試合に5点取るのは当たり前。逆に投げている方は、4点5点ならまあいいか、という世界でした。試合でもリードしていても、2イニング3イニングでひっくり返る。1試合20点以上取ることも日常茶飯事でした。
僕は、ピッチャーとしては、逆に金属バットを経験できて良かったと思っています。どう抑えるかを考えるので、その中で投球術も出来てくるんですよね。その後、プロに行く選手も、『金属上がりのピッチャーは使いやすい』と言われることが多かったですね。

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プロフィール

阿部次男
阿部次男(富士重工業)

利根商業高卒業後、1991年に富士重工業に入社。22年間、社会人野球の第一線で活躍してきたサウスポー。2011年には都市対抗野球大会10年連続出場表彰を受ける。その翌年、惜しまれながらも現役を引退する。

<主なタイトル>
第33回社会人野球日本選手権大会最優秀選手賞(2006年)
第79回都市対抗野球大会小野賞(2008年)
都市対抗野球大会10年連続出場表彰(2011年)

岡崎淳二
岡崎淳二(鷺宮製作所)

川越商業高では地区大会2年連続完全試合達成。2年夏には甲子園出場。東洋大学を経て、1995年に鷺宮製作所に入社。入社1年目にチームを20年ぶりとなる都市対抗優勝に導く活躍。18年間、社会人野球で活躍したサウスポーは、2012年に引退を決意。

<主なタイトル>
第32回社会人野球日本選手権大会優秀選手(投手部門)(2005年)
第78回都市対抗野球大会優秀選手(投手部門)(2007年)