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第1回 日本通運 澤村幸明選手2011年10月19日
1996年、夏の甲子園。熊本工業と松山商業との決勝戦。9回裏、2対3の1点ビハインドの場面で、同点本塁打をレフトポール際へ放った熊本工業の当時1年生・澤村幸明。
あの夏から15年。31歳となった澤村は、日本通運(さいたま市)のキャプテンとして、今年もまた11年連続の都市対抗出場に貢献。常に第一線で活躍し続ける澤村だが、法政大から日本通運に入社してからの5年間は意外にも、プレーヤーとしての壁にぶちあたっていた。
結果を求め過ぎていた5年間

"自分を信じることも大事だけど、思い切って変えることも大事なんだと気付いた"
――若手時代の澤村選手は、高校時代や今の『中距離打者』のイメージというよりも、つなぐバッティングが印象的でした。ご自身の中でプレースタイルを切り替えた時期というのは、あったのでしょうか?
澤村選手(以下「澤」) 日通に入社してから5年間というのは、結果を欲しがる年代だったんです。プロにも行きたい。試合にも出て結果を残したいって。
当時は2番や9番を打っていたので、チームのために自分を犠牲にするバッティングをしようっていう思いがすごく強かった。ワンナウト1塁でも右方向に打って、1、3塁にしたりとか。2アウト2塁にして後ろにつなぐとか。だけど、それだと結果を残したとしても、自分のいいところを殺しているんじゃないかなっていう思いも出てきたんです。
入社して4~5年が経った頃に、犠牲にしてるだけじゃ、プロのスカウトにも見てもらえない。プロに行くには何か、他の選手よりポンって抜けてるものがないといけないと気づいて。足はそんな速くないけど、守備には自信があった。だったらバッティングをガラっと変えてみようと思いました。今までは右方向に打っていたので、今度は飛ばしてみようと。
――プロの世界を目指しながら、届かない現実に、何か変えていかなければと気付いた結果だったのですね。ガラっと何かを変える勇気はどこから生まれてきたのですか?
「澤」 このままではダメだっていう思いからですね。この頃の打率は、低いときは2割ちょっとの時もありました。自分を信じてやることも大事だけど、思い切って変えることも大事なんだと気付いたんです。
自分の悪いところは何だろう?って考えた時に、シーズン通して振り返ってみると、ホームランは僅か1本だけ。ただ、打率の割には打点も多くて、勝負強さはあったけど、他のところは弱すぎでした。チャンスの時には打てるけど、チャンスじゃない時に結果を欲しがってしまうんですよね。
バッティングでは、『見て選んで打つ』っていうのが僕の悪いところだったんで、これじゃダメだ。アウトになってもいいから、空振りでもいいから振ろうと。『それでダメだったらしょうがない』っていう感覚を持たないと結果って出ないだろうなって考えられるようになりました。