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第5回 Honda 西郷泰之選手 (前編)2012年03月23日
社会人野球でプレーして今年で22年目。「ミスター社会人」こと、Hondaの西郷泰之。これまで都市対抗では、補強選手での出場も含めて、10年間で6度優勝を経験している。また、日本代表キャリアも現役選手の中では最多の18度と、多くの実績を残している西郷も今年で40歳となる。
今回は、そんな西郷泰之選手の独占インタビューを連載でお届けしていきます。
西郷泰之のヒストリー

"三菱ふそう川崎時代 (撮影=島尻譲)"
――日本学園高を卒業してすぐに、三菱自動車川崎に入社した西郷選手。当時からパワーを武器にしたバッターだったのでしょうか?
西郷泰之選手(以下「西郷」) 僕は高校でもそうですけど、入社した頃もホームランを打てる選手ではありませんでした。社会人に入ってからも、つなぐ役割の選手でしたね。当時からファーストだったんですけど、入社当時はピッチャーがやりたかったんです。それで、当時の大須賀監督に入社した時に「ピッチャーをやらせてください」って言ったら、「いいよ」って言ってくださって。「よし!」と思ったんですけど、公式戦に出ることもなく1年も経たないうちにクビになりましたけど(笑)
――それで2年目からは、バッティングに注力していこうと?
「西郷」 そうですね。だけど、毎年実力のあるスゴイ選手が入ってくるわけですよ。明治大や慶応大、日本大の4番だった選手とか。「俺、出られないじゃん」って、危機感を感じていました。このままじゃ、試合に出られないと思いましたね。でも、守備なら勝てると思ったので、ファーストを狙って守備はとにかく練習していましたね。
――実際に試合に出始めたのは、何年目からですか?
「西郷」 入社4年目ですね。バッティングでは、ミートする力はある程度あったと思います。球は捉えられていたので、その状態から力をつけていこうと思っていました。守備も良くなっていたので、バッティングも上手くなれば、出られるんじゃないかなって思っていたら、4年目の夏の都市対抗が終わってからレギュラーで出場するようになりました。
――チームのレギュラーを掴み、その後日本代表にも選ばれるようになった西郷選手。プロ野球への思いはずっと持ち続けていたのでしょうか?
「西郷」 ありましたよ、小さい頃からプロ野球選手になりたいと思ってずっと野球をやってきたので。でも、なれなかった。 24~26歳の時にプロ野球入りへの可能性がなかったので、プロ野球に入れないなら、「もう野球はいいかな」って考えた時期がありました。
「このまま続けて、どうするんだろう?」という気持ちで野球をやっていました。しばらくは、そんな気持ちで野球を続けていました。
当時の大須賀監督にもその頃は「もう辞めます」って何度も話しに行きました。それで、監督が「ダメだ」って言って、「明日また来い」って言われる。次の日にまた「辞めます」って言いに行くと、「ダメだ、また明日来い」って言われるんです。そんなことを2~3年続けていましたね。
つい最近、当時の監督さんにお会いしたんですけど、「お前、あの頃は俺に相当迷惑かけたな」って言われましたね。「その当時は本当にすみませんでした」って謝りましたけどね(笑) でも、今僕が続けているっていうのは、その当時の監督さんがそこで引き止めてくれたから、今こういう気持ちで野球が出来ているので、本当にありがたいと思います。

- 西郷 泰之(さいごう やすゆき)
- 1972年8月30日、東京都生まれ。日本学園高校卒業後、三菱自動車川崎(三菱ふそう川崎)に入社。08年にチームは休部するが、翌年からHondaに移籍し、同年夏の都市対抗で自身6度目の都市対抗優勝を果たすなど、「優勝請負人」と呼ばれてきた。また現在、日本代表キャリアも現役選手の中では最多の18度と、多くの実績を残している。