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第5回 Honda 西郷泰之選手 (前編)2012年03月23日

「やっぱり僕は野球がやりたかった」

"はじめて都市対抗優勝は、心も体もすべてMAXな状態でした"

――結果的に西郷選手の気持ちが切り替わって、前向きにまた野球に取り組めるようになったきっかけというのは、何だったのでしょうか?

「西郷」 ケガをしたんです。(1999年の)都市対抗前に全日本の合宿があって、そこでマシンの準備をしていたら、マシンのボールが頭に当たってしまったんですよね。記憶はあったんですけど、動けなかった。頭蓋骨骨折と脳挫傷で、入院していました。周りからは、「もう西郷はダメなんじゃないか」って思われていたようですが、たまたま当たり所がよくて、頭も何ともなかったんです。
 それで、何カ月も入院して、本当に野球が出来なくなった時に、「野球をやっぱりやりたい」って強く思ったんです。自分は野球を辞められないって。それからは、辞めるって言葉を一切口にしていないですね。

――その後の西郷選手のモチベーションというのは、どんな思いを持って野球に取り組んできたのでしょうか?

「西郷」 まず、ケガをしてしばらく野球から離れていたので、「そういえばあんな奴いたよね!」って周りのチームに思われるのが嫌だったんです。それなら、もう1回見せてやろう!って思いでした。

――その翌年の2000年に三菱ふそう川崎は都市対抗で初優勝を成し遂げました。西郷選手も主軸として優勝に大きく貢献されましたね。

「西郷」 すごく嬉しかったですね。その当時は、優勝なんて考えられなかった。チームとしては95年に日本選手権で1回優勝しただけでしたし、都市対抗で優勝することに現実味が無かったんですよね。 あの年は心も体もすべてMAXな状態でしたね。初めて優勝した時は充実していたというか、上手く言葉に出来ないんですけど、自分の中でも「今年はやれる」っていう手ごたえがありました。

――この優勝を含めて、その後も三菱ふそう川崎で計3回、補強選手としても2回の都市対抗優勝を経験した西郷選手。社会人野球界では、「優勝請負人」とまで呼ばれるようになりました。しかし、チームは2008年に活動休止が決定しました。

"自分の存在感を出してチームに貢献したかった  (撮影=島尻譲)"

「西郷」 あの日のことは、今でも覚えています。以前から、そんな話しがあるっていうのは聞いていたのですが、勝つことによってそれが変わるかもしれないから頑張ろうってチームみんなで話していました。だけど、本当に休止を告げられて、どうすることも出来ない思いでいっぱいでしたね。だけど、会社あってのチームなので。

――その時に、野球を他のチームで続けるか、もしくは社業に専念するかで悩まれたのでしょうか?

「西郷」 その当時、僕は36歳だったんですけど、36歳の選手を取るチームは他にないだろうって思ったんですよね。垣野監督にも話しをしていて、「もし野球をやらせてくれるチームがあったら、話しだけは聞かせてほしい」って伝えていました。そしたら、監督が動いてくれたんですよね。そこでHondaからお話しをいただいて、Hondaは雰囲気もとてもいいチームだということは知っていたので、そこで続けることに決めました。

――Hondaに移籍1年目で、西郷選手はチームの主軸を任され、そして、またも都市対抗で優勝を果たしましたね。

「西郷」 せっかく自分を取ってもらって、全くダメだったら、監督さんや会社にも迷惑をかけてしまうという気持ちもあったので、絶対に勝たなきゃいけないという、そんな気持ちもありました。プレッシャーは今までより大きかったけども、自分ひとりで試合をやっているわけではないので、自分が足りない分は他のみんながやってくれると信じていました。Hondaというのは、そんな雰囲気のチームなので、自分もそれに負けないように。その中でも自分の存在感を出したい、またチームの力になりたい、そんなことを考えながらプレーしていました。優勝できて、本当に嬉しかったです。

 高校を卒業してから、三菱自動車川崎(三菱ふそう川崎)に入社し、そして現在のHondaに移籍するまでの西郷選手の約20年間のヒストリーを今回はお伺いしました。 次回は、多くの記録を残してきた西郷選手に「数字」をテーマに、ホームランについてやオリンピックの思い出などを語っていただきました。心が震えるような、熱い言葉も多く飛び出します!お楽しみに!

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プロフィール

山縣有輔
西郷 泰之(さいごう やすゆき)
  • 1972年8月30日、東京都生まれ。日本学園高校卒業後、三菱自動車川崎(三菱ふそう川崎)に入社。08年にチームは休部するが、翌年からHondaに移籍し、同年夏の都市対抗で自身6度目の都市対抗優勝を果たすなど、「優勝請負人」と呼ばれてきた。また現在、日本代表キャリアも現役選手の中では最多の18度と、多くの実績を残している。
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