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第2回 【プレミア12特別企画】 優勝投手・大塚 晶文氏が振り返る「第1回ワールド・ベースボール・クラシック」(前編)2015年11月16日
【目次】
[1] WBC第1回大会を振り返って
[2] 準決勝で韓国と対戦
「第1回 WBSCプレミア12」が現在、日本・台湾で共同開催されているが、連日連夜の侍ジャパンの活躍に、日本中が大きな盛り上がりをみせている。
前日の1次ラウンドB組のベネズエラ戦では、サヨナラ勝ちを収め、予選リーグ全勝で準々決勝進出を決めた日本。記念すべき第1回 WBSCプレミア12の初代王者に輝くべく、順調に白星を積み上げている。
さて今回は、今から9年前に行われた「WBC第1回大会」の胴上げ投手となった大塚 晶文氏(現・中日ドラゴンズコーチ)に、当時のWBC大会での思い出をたっぷりと語っていただきました。
WBC第1回大会を振り返って
成し遂げた「偉業」の価値に大塚 晶文が気づいたのは、第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)優勝から数日後のことだった。
2006年3月下旬、WBCの激闘を終えて新天地のテキサス・レンジャーズに合流すると、1998年から16年間メジャーリーグで活躍したマーク・デローサが声をかけてきた。
「アキ、お前、すごいな。アキはまだ世界でひとりしか立ったことがないマウンドを経験しているんだから」
同僚の一言で、大塚はWBC優勝投手の意味を実感した。
「自分の限界の枠が取っ払われたというかね。今までは日本の枠だったのが、メジャーに行って、世界大会というもっと上のところまでポーンと行けちゃったんだなと思って。自分なら何でもできると感じました」

大塚 晶文コーチ(中日ドラゴンズ)
各国のプロ選手が参加し、国別の世界一を懸けて行われるのがWBCだ。その第1回大会で、大塚は日本代表の守護神として決勝の最終回を締めくくっている。
そのマウンドは、大塚にとって立つべくして立つ場所だった。最終決戦の舞台は、前年まで本拠地としてプレーしていたペトコ・パークだったのである。
特別なマウンドで投げられることは、大塚がWBC参加を決断した一因だった。
「年齢的には当時、34歳。サンディエゴで決勝が行われるし、今まで全日本のユニフォームを着たことがなかった。『これが最後のチャンスかな』と思いましたね」
全日本代表入りを打診された際、所属していたサンディエゴ・パドレスに相談すると、参加の快諾を得た。
だが2006年1月、急転直下でレンジャーズへのトレードが決まる。バック・ショーウォルター監督に「できれば、一緒にスプリングトレーニングを過ごしてほしい」と言われ、悩みに悩んだ。長谷川 滋利(元マリナーズ)や井口 資仁(現ロッテ)(2014年インタビュー)、代理人らに相談した末、大塚は日本代表に参加辞退の電話を入れている。
しかし翌日、「やっぱり、こんなチャンスはないんじゃないか」と思い直した。出場しなければ、後悔するに決まっている。そう感じてレンジャーズと交渉し、WBCに参加する許可をもらった。
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