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第42回 石川ミリオンスターズ フリオ・フランコ監督兼選手「日本野球を変えた漢、独立リーグの変革者へ」2015年04月02日

【目次】
[1]日本で指導できる扉を開いてくれた石川ミリオンスターズ
[2]いろいろなことを「チェック」していきたい / 「素晴らしい」ゲームを石川で魅せます!
1995年、ヤクルトスワローズと西武ライオンズを監督として初の日本一に導いた広岡 達朗氏をGMに。加えてかつてテキサス・レンジャーズで指揮を執ったボビー・バレンタイン氏を監督に招へい。これまでの日本プロ野球にはない「MLB的手法」を導入し、パ・リーグ前年5位から2位への大躍進を果たした千葉ロッテマリーンズ。フロント・ベンチでの功労者が両者とすれば、グラウンドにMLBの風を運んでくれたのはフリオ・フランコ内野手であった。
1982年にフィラデルフィア・フィリーズでMLBデビューを果たすと、1991年にはテキサス・レンジャーズで.341のハイアベレージでMLBアメリカンリーグ首位打者に輝くなど、前年まで実に1922安打を放っていた現役バリバリのメジャーリーガーは、わずか1年で日本国内における野球選手の意識を変えるほどの衝撃をもたらした。
バットのヘッドを突き出す独特のフォームから確実にボールの芯を叩くバッティング。日本でもゴールデングラブ賞を受賞したハンドリング鮮やかな一塁守備。何よりも野球に取り組む真摯な姿勢。昭和の時代にはともすると、尊大に見える傾向があったプロ野球選手が近年、柔和にシフトしてきたのも「フリオ・フランコ」がきっかけになったと言っても過言ではない。
2度目の来日となる1998年には外国人としては異例の千葉ロッテマリーンズ主将に就任。そんな日本野球を変えた偉大なドミニカ人が20年近くの時を超え、再び日本野球の変革者になるべく、日本の土を踏んだ。
短い言葉の中にみなぎるプロ意識と闘志。漢の叫びをぜひ感じてほしい。
日本で指導できる扉を開いてくれた石川ミリオンスターズ
――あえて言わせて頂きます。「おかえりなさい」。1995年の千葉ロッテ時代には、マリンスタジアムでフランコ選手をよく見させて頂きました。
フリオ・フランコ監督兼選手(以下フランコ) そうだったんですね。ありがとうございます。
3月15日に四国コカ・コーラボトリングスタジアム丸亀で開催された「丸亀市合併10周年/丸亀市・七尾市親善交流40周年記念交流戦」香川オリーブガイナーズ戦がフランコ監督兼選手の采配初戦となりました。その試合後もたくさんの人に囲まれてサインをされていました。これも日本のファンがフランコ監督兼選手を覚えている証拠だと思います。

フリオ・フランコ監督兼選手(石川ミリオンスターズ)
フランコ 私の事を覚えてくれていることは本当に感謝しています。そして球場に来てくれて声をかけてくれる。これもとてもうれしいことです。
――早いものであの鮮烈な日本デビューから20年たちました。今回、1998年以来となる3度目の日本に戻ってきたきっかけとは何ですか?
フランコ 私は1998年以降もずっと野球選手としてやってきました。そして今回、指導者兼選手として働く機会をこの石川ミリオンスターズが与えてくれたので日本に戻ってきたんです。
――では、今回フランコ監督兼選手がNPBでなく、独立リーグで指導しようと思ったきっかけは?
フランコ NPBや独立リーグということでなく、日本で指導ができる扉を開いてくれたのが独立リーグだったので今回、ルートインBCリーグの監督を引き受けたんです。
――日本でプレー・采配することへの感慨はありますか?
フランコ 野球というものは4つのベースがあって、そこでプレーすることは万国共通です。ストライクを投げて、打って、走る!ということですよ。
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- フリオ・フランコ
- 生年月日:1958年8月23日
- ドミニカ共和国出身
- 185センチ95キロ
- 右投右打
ディビネプロビデンセ高等学校卒業。82年にフィラデルフィア・フィリーズなど4球団でプレーした後、96年・98年に千葉ロッテマリーンズでプレー。
その後、08年はメキシカンリーグのキンタナロー・タイガースでプレーしたのち、同年限りの現役引退を発表。12年からは球団監督を務めるなど、指導者として野球界に貢献。15年より、BCリーグ石川ミリオンスターズの監督兼選手に就任した。