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第18回 愛媛マンダリンパイレーツ 藤長賢司 選手2013年07月15日
【目次】
[1]偶然のつながりで愛媛・済美高へ
[2]いつの間にか体力を作ってくれた済美での3年間/大学・社会人・そして独立リーグの道へ
「3」収穫多き1年目、そして家族のために勝負の2年目へ
いつの間にか体力を作ってくれた済美での3年間
――2003年4月、寮に入り済美での生活が始まりました。
藤長 最初の1週間は遠足気分でした。でも、まず監督は怖いし、一日6時間・22時前までの練習の後には先輩分含めての洗濯に追われる生活。生活の基礎から一変して、その厳しさをわかってくると『えらいところに来てしまった』と(苦笑)。毎日実家に寮から電話して『帰りたい』と言ってました。

済美高時代から慣れ親しんだ坊ちゃんスタジアムで語る愛媛MP・藤長賢司二塁手
――それでも続けていくうち、いつの間に気づいたことがあったそうですね。
藤長 済美の練習は全てにおいて量。体力づくりを一番に重んじていますから、体力は知らず知らずのうちについてきました。今と違ってトレーニングの意味を考える暇もありませんでしたが、体は大きくなりましたね。エルゴメーターとかはもう・・・ムチャクチャキツかったです。
――1年夏の愛媛大会ではベンチにも入ったそうですね
藤長 16番でした。でもその後はいつも最後の争いに負けて。『なんでや』という悔しい思いも持ちながら、先輩たちのセンバツ初出場初優勝や選手権初出場準優勝を見ていました。
――2年秋からは二塁手・中堅手でレギュラーを獲得。センバツ連覇を目指し戦いに臨んだのですが・・・
藤長 県大会決勝、四国大会準決勝と二度西条に負けて。四国大会決勝戦が新田対西条になったので、『優勝旗を全員で返しにいく』目標は叶いませんでした。その時は悔しさと同時に「冬の練習はどうなるんだろう」という思いはありましたね。
――想像の通り、冬の練習は…...。
藤長 サーキットメニューに1日1000回・鉄バットも含めたスイング。手は血だらけでした。『こんだけやって勝てんかったらしょうがない』という気持ちになれたことが3年夏・決勝戦でこれまで2度負けていた西条に勝てた(4対3)要因だと思います。
――最後の夏は1番遊撃手として甲子園のグラウンドに立つことができました。
藤長 少年野球チームや中学時代の同級生もいっぱい見に来てくれて。グラウンドでもアルプスの応援が凄くて地面が揺れる感覚。緊張して最初の打席では足がふるえたことを覚えています。
チームは旭川工(北北海道)に勝って(6対0)1勝はできましたが、僕自身は清峰(長崎)戦(4対9)含めてノーヒット、エラー2個、盗塁死2度。できるならもう1回やり直したいですね。
大学・社会人・そして独立リーグの道へ

――大学は大阪体育大に進学しています。
藤長 多くのスカウトが福井(巨人4位指名も拒否し一浪後早大進学)を見に来ている一方、自分は目をつけて頂けなかったので進学することにしました。入学当時はプロへの思いも薄れてきていたのですが、関西国際大や大阪産業大といった強豪と対戦する中で結果も残せて(4年春には8打数連続安打・2年秋・4年春は首位打者)自信をつけることができました。
――それもあってプロ志望届を出したのですね、しかし2009年ドラフトでの指名はありませんでした。
藤長 一時は野球を辞めようかと思うくらい落ち込みました。卒業後は仕事で営業職をしながら社会人野球をしていたのですが、そのうちやはり上を目指したい気持ちが出てきたので、毎年指名選手が出ている独立リーグに進むことを決めて、愛媛マンダリンパイレーツの独自トライアウトを受験。2012年に入団しました。
――入団したころは独立リーグにどんなイメージを持っていたのですか?
藤長 正直、『できるやろう』と思っていたんです。でも、レベルの高さに1ヶ月結果が出ず……。全部打ち砕かれました。
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- 藤長 賢司 (ふじなが・けんじ)
- 1988年1月12日 兵庫県出身
- 身長173センチ 体重74キロ 右投左打
- 済美高校
-大阪体育大学 - 2012年 ベストナイン(3塁手)