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第1回 イーストアストライア 川端友紀選手(前編)2013年07月01日

女子プロ野球界を代表する選手として、注目を集めている川端友紀選手。リトルリーグで野球を始め、中学校からはソフトボール選手として活躍。オリンピック出場の夢を目指していたが、一転、2009年、日本女子プロ野球機構による第1回合同トライアウトに参加し合格。京都アストドリームスでプロ野球選手としての第一歩を踏み出した。
2013年、リーグの再編に伴いイースト・アストライアへ移籍。今、最もアツい選手の一人です。
そんな川端選手に野球を始めたきっかけや、ご家族との思い出、これまでの経験。そしてこれからの野球選手としての目標もお伺いしました。
【目次】
[1]世界の舞台に憧れた小・中学生の頃
[2]野球一家に生まれたからこそ
[3]運命を感じた女子プロ野球の設立
世界の舞台に憧れた小・中学生の頃

――最初に持ったグラブは、お父様からプレゼントされたのでしょうか?
川端友紀選手(以下「川端」) グラブは兄(東京ヤクルトスワローズ 川端慎吾選手)が使っていた物をもらってプレーしていました。子供用ではなく、もう大人用のグラブを使っていました。
――そのグラブは内野手用ですか?
川端 内野手用ではなく、どこでも守れるオールラウンダー用のグラブです。小学校3年生の時ですね。それと同時に兄と同じリトルリーグに入り、本格的に野球を始めました。リトルリーグは小学校まででした。
――中学生からどうされたのでしょうか?
川端 中学生から学校のソフトボール部に入ってプレーしていました。
――当時は野球をやりたい、野球選手になりたい、という夢がありましたか?
川端 やりたかったですね。続けたかったですけど、女子だけでは厳しいという声がありました。中学校に入ってからは周りの女の子に呼びかけて女子野球部を作ろうと思っていたのですが、野球が怖いという女の子が多くて出来なかったので、ソフトボールをやっていました。
――野球ができない悔しさはあったのでしょうか?
川端 それはありましたが、でもソフトボールもソフトボールなりに魅力がありましたので、楽しんでやっていました。
――こどもの頃の将来の夢は何でしたか?
川端 中学生の時はソフトボールをやっていて五輪で日本代表に出るのが夢でした。小学校の時はただ野球が楽しくて、今みたいに女子プロ野球があるわけではないので、そういう夢は持っていなかったです。でも兄という存在や、チームメイトの存在があったので、その人達よりうまくなりたい。近づきたいという気持ちでした。

――お兄さんは高校野球で活躍。その姿を見て、高校野球をやりたいという気持ちになりましたでしょうか?
川端 生まれて初めて始めたスポーツでしたので、野球をやりたいという気持ちは持っていました。男で生まれていれば、と考えたこともありますけど、当時はソフトボールをやっていて、それで日本代表としてオリンピックに出たい気持ちが強かったです。
――甲子園はどんな存在でしたか?
川端 兄が甲子園(第86回全国高校野球選手権大会/第77回選抜高等学校野球大会)に出た時に応援しに行ったんですけど、甲子園は高校球児にとって憧れの場所で、みんなそこを目指して頑張る姿が印象的でした。試合中に観客も一体となっているとすごく感じました。野球をやっている選手だけではなく、ベンチに居る選手も、スタンドにいる選手も一般のお客さんも、1球を追いかけている姿が良いと思いました。
――プロ野球選手になって一体となってボールを追いかけている感覚を味わっていますか?
川端 女子プロ野球は認知度が低く、観客数も少ないので、もっとメジャーになって一体感のある雰囲気をつくりあげていきたいと思います。
――当時お兄さんが高校球児だった頃、家族の間の話題は野球が中心だったのでしょうか?
川端 兄は朝早くて、夜も遅かったので、家族揃って食べたり、話したりする時間があまりなくて。土日の夜でたまに一緒になるときがありましたけど、そこでは結局は野球の話題が中心でした。
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- 川端友紀 (かわばた・ゆき)
- イースト・アストライア
- ポジション:内野手
- 生年月日:1989年5月12日
- 出身地:大阪府貝塚市
- 経歴:市立和歌山高(ソフトボール) - 塩野義製薬(ソフトボール) - 京都アストドリームス(2010 - 2012) - イースト・アストライア(2013〜)
- 身長:170cm
- タイプ:右投左打
- 首位打者(2010、2011)
最高出塁率(2011)
ベストナイン遊撃手(2011) - 上記データは掲載時のものとなります。